『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
(4)
髪を染めた日の10日後、偶然にも駅前のスーパーであの若い女性美容師に出会った。
「あの~、吉野さん?」
躊躇いがちに声をかけると、「えっ?」と彼女が振り向いた。
それでも、驚きの表情はすぐに消えて、「あっ、この前いらっしゃったお客様ですよね」と笑みを浮かべた。
「お名前は確か……」
「高彩です。高彩貴光」
「あ、そうでした。高彩様」
店の時と同じように様を付けられたので、「様は止めて下さい」と言うと、「では、高彩さんと呼ばせていただきます」とまた笑みを見せた。
そして、自分の名前が『ゆめおか』だと言って、夜に見る『夢』と小高い『丘』だと補足した。
「えっ、吉野さんじゃないんですか? 店長が『よしの』と呼んでいましたけど」
「はい。よしのは名前なんです。『愛乃』と書いて、よしのと読みます」
「そうなんですか。でも夢丘愛乃って芸名みたいですね」
「よくそう言われます。でも、高彩さんも芸名みたいですよ」
くすっと笑った。
その笑顔に魅せられた。
余りにも可愛すぎたので目が離せなくなって、ちょっとの間、見つめ続けてしまった。
「どうかしましたか?」
不思議そうに見つめ返された。
「いえ、こんなところで偶然会うなんて思ってなかったから」
慌ててごまかした。
「ほんとですね。私もびっくりしました」
またくすっと笑った。
今度も可愛かった。
それでも見つめ続けるわけにはいかないので適当な話題を探したが、頭に浮かぶものは何もなく、苦し紛れに退職したことを話してしまった。
「えっ、会社を辞められたのですか?」
目を大きく見開いた。
「そうなんです。お店に行った前の日が最終出社日でした」
髪を染めて、新たな髪型にして、人生を変えようと思ったこと、新しい仕事を見つけようとしていることなどを話した。
すると、「そうなんですね」と頷き、「どういう仕事をされるのですか?」と興味津々といった目で見つめられた。
「人を幸せにする仕事です」
思わず口から出た言葉に自分で驚いた。
「人を幸せにする仕事ですか……」
「そうです」
「それは、どういう……」
「愛乃さんのような仕事です」
「えっ、美容師?」
「いえ、そうではなくて……」
しどろもどろになりそうなので話を変えた。
「名前を呼んでしまって、ごめんなさい。夢丘さんと呼ぶべきでしたね」
謝ると、彼女は小さく手を振って、「よしので大丈夫です。お店でもそうですし、中学や高校の時もずっとよしのと呼ばれてきましたから」と笑みを見せた。
その表情にまた吸い込まれそうになったが、「お仕事のことですけど、私のような仕事で、でも美容師ではないというと」と話を元に戻されてしまった。
見つめられて焦った。
そのせいか、「美容室の経営者になりたいと思っています」とまたもや信じられない言葉が口を衝いた。
何を言っているんだ自分は!
自分で言って自分で驚いたが、それは彼女も同じようで、「美容室の経営者、ですか……」と可愛い口が開いたままになった。
*
なんであんなことを言ってしまったのだろう?
思ってもいなかったことを口にした自分に、自宅に帰ったあとも驚き続けた。
わたしが美容室の経営者?
なんで?
同じ問いが頭の中をぐるぐる回った。
でも、理由などわかるはずもなかった。
思わず口を衝いたのだから、いわば出まかせなのだ。
そんなことを考えていたら、ふと彼女の驚いたような表情が目に浮かんだ。
可愛い口が開いたままのあの顔だ。
でも、否定するような表情ではなかった。
本心はわからないが、どうしてかそう確信すると、わたしが美容室の経営者で、彼女が美容師で、2人が一緒にやるということもあり得るのではないか、という考えが浮かんできた。
あり得なくもない。
否定する気持ちにはならなかった。
それに言ってしまった以上、あとに引くわけにはいかない。
あれは冗談でしたって言うわけにはいかないのだ。
しかも、わたしは会社を辞めて新たな道を探している。
髪を染めて生まれ変わった自分が活躍できる場を探しているのだ。
ぴったりではないか、
髪で苦労した自分が髪に関係する仕事をするのは生まれた時から決められた運命ではないかという気がしてきて、ますますその気になった。
やるしかない!
結論を下すのに時間はかからなかった。
となれば善は急げで、スマホを手に取って、全国展開している美容室を検索した。
しかし、見つけることはできなかった。
限定された地域で展開しているところはいくつかあったが、広域に展開するチェーン店はなかった。
がっかりした。
でも、どうしようもなかった。
それでもここで諦めるわけにはいかなかった。
理容室ならあるかもしれないと思って、気持ちを切り替えた。
今度はすぐに見つかった。
広域に展開している理容室チェーンが社員を募集していた。
当然のごとく理容師の募集が前面に出ていたが、下へスクロールしていくと、『経営企画職の募集』という文字が目に入った。
これなら可能性があると思って詳しく読むと、前提条件が書かれていた。
〈経営企画の仕事を3年以上経験していること〉と明記されていたのだ。
それは無理だった。
わたしにその経験はない。
なので、諦めて他を捜そうと思ったが、その時、救いを差し伸べるような文言が目に入った。
〈もしくは、MBAの資格を持っている人〉
MBAか、
思わず呟いてしまったが、それはがっかりした響きではなかった。
自分でもわかるくらい頬が緩んでいたのだ。
もちろん、わたしはMBAの資格など持ってはいない。
でも、以前から憧れていたこともあって、この条件にはなんの抵抗も感じなかった。
というより、俄然、目の前が開けてきたように感じた。
〈大学院へ行って、MBAを取得して、全国規模の理容室チェーンでノウハウを身に着けて、数年後に彼女と美容室を開設する〉という妄想がどんどん膨らんできた。
それは抑えきれないほどの大きさになった。
すかさずネットで検索して、資料をいくつか取り寄せた。
*
1週間もかからずにすべての資料が揃った。
すぐさま比較表を作って必死で見比べた。
選択できるコース、カリキュラム、講師陣、設備の充実度など、多岐にわたって詳細に検討した。
その結果、都心にある経営大学院が最適と判断した。
そこには経営者育成コースがあり、既に多くの卒業生が社長になっていると記されていた。
これこそ自分が目指しているものにぴったりに違いないと確信した。
あとは学費が払えるかどうかだが、これについては問題なかった。
2年間の合計が400万円になるらしいが、貯金と割増退職金があるから余裕で賄える。
それに、2年間収入が無くても生活に困ることはない。
他に検討すべきことは……と考えたが、何もなさそうだった。
善は急げ! と同封されていた願書に記入を始めた。
名前、住所、電話番号と書いていき、志望動機と将来の目標については別の紙にまとめてから、何度も確認した上で書き込んだ。
自分の夢を実現させるためには計画に具体性がなければならないからだ。
書き終わるのに3日ほどかかったが、すべてが埋まった願書を見ていると、新たな道を進む自らの姿が見えたような気がした。