『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
✂ 第10章 ✂ 決断

(1)


 一流のスタイリストとアシスタントを計15人集めるという難題に加えて、もう一つ心を重くしていることがあった。
 速攻カットの社長との関係だった。
 あれから干され続けているのだ。
 毎日会社へ行ってはいるが、これという仕事がない。
 上司は社長だけなので、指示が出るのを待っているが、呼ばれることもなく、電話もメールもない。
 それに、周りの社員からの冷たい視線も気になる。
 経理部のスペースの窓際に机を置いているのだが、〈あの人何をしているのだろう?〉という視線を感じるのだ。
 それはそうだ。一日中机に座って経営専門紙を読んだり、パソコンとにらめっこしているだけなのだ。会議に出ることもなく、昼食はコンビニ弁当を食べて誰とも会話を交わさない人間に不審な目を向けるのは当然だろう。

 こんな状態が続いているので、精神的にかなり参っていた。
 大きな失敗やコンプライアンス違反をしたわけではないので解雇されることはないが、年収1,000万円に見合う仕事はまったくできていない。
 給料泥棒と同じなのだ。
 退職願を出すことも考えたが、その後の当てがあるわけではないので、その度に思いとどまっていた。
 夢丘の進路が定まっていない状態で無職無給になるわけにはいかない。
 といって、このままの状態が続けば、いつか心に闇が訪れるようになるだろう。
 それは避けなければならない。
 でも、解決策はない。
 社長に直談判するという考えもあることはわかっているが、それをすれば、辞職を促されるに決まっている。

 といって……、

 結局、堂々巡りなのだ。
 今日も心に蓋をして、仕事をする振りをしなければならない。
 それしかできることはないのだ。

        *

 夢丘も悩んでいた。
 日本一高いビルの最上階で腕を振るうことができるチャンスがきたのに、スタイリスト10名とアシスタント5名を採用する方法がまったくわからないのだ。
 もちろん、誰でもいいのならリクルート誌で募集をかけて、かき集めることはできるだろう。
 でも、超高級美容サロンと標榜する限りは、トップクラスの腕を持つ人材を採用しなければならない。
 評判を落とすようなレベルの人を雇うわけにはいかないのだ。
 ただ1人思い浮かぶのは、この前まで勤めていた店の店長だが、責任を持つ重要な人物を引き抜くわけにはいかない。
 それは、お世話になった店に後ろ足で砂をかけるようなものだからだ。

 といって……、

 いつもそこで思考が止まってしまう。
 伝手も人脈もない夢丘に新たな考えが浮かぶことはなかった。

        *

 わたしは、その日も9時前に出社して、仕事をする振りをしていたが、昼休みが近づいてくると、それも耐えられなくなった。
 また経理部の懐疑的な視線を感じながらコンビニ弁当を食べると思うと、胃の辺りがキューッとしてきたのだ。
 だから、久しぶりに外でご飯を食べることにした。
 といって、食欲はなかった。
 定食も丼物もラーメンも受け付けるわけがない。
 ざるそばしかないと思って、立ち食いの店に入った。

 シンプルに〈せいろ〉にしようと思ったが、自動販売機のメニューの中に〈とろろ〉の文字を見つけると、急に気持ちが変わった。
 すりおろした山芋が胃の粘膜を保護してくれるように感じたからだ。
 
 食べ終わって時計を見ると、まだ30分以上休み時間が残っていた。
 すぐに戻るのはもったいないので、近くの公園に行くことにした。
 あの居心地の悪い机に戻るのは1分でも遅い方がいいからだ。

 ベンチに座ると、弁当を広げている若い女性たちの姿が目に入った。
 新入社員だろうか?
 初々しい笑顔が新緑とマッチして輝いていた。

 夢と希望にあふれているんだろうな?

 そんなことを考えていると、急に居心地が悪くなった。
 ここにも居場所はなかった。
 仕方がないので、会社に戻るために立ち上がった。
 その時だった、スマホが着信を知らせてきた。
 見ると、QOL薬品の社長と表示されていた。
 何事かと思って一瞬、身構えたが、ONにしたスマホからは弾むような声が聞こえてきた。

「お昼休み中にすみません」

 仕事が合わる夕方まで待とうと思ったが、待っていられなくなって電話をしたという。

 伝えられたのは、信じられないというか、嬉しすぎる内容だった。
 ブランド統一をしてから順調に売上が伸びていて、今の調子でいけば、年間で20億円ほど売上が増えそうなのだという。

「高彩さんには1億円ほどお支払いできるかもしれません」

 それを聞いた途端、膝が震え出した。
 とてつもない金額に押しつぶされそうになった。
 でも、お礼を言わなくてはと思い、「お役に立てて良かったです」と声を絞り出したが、それは掠れて弱々しいものになった。
 すると、心配そうな声が返ってきた。

「どうかしましたか?」

「いえ、金額を聞いて、びっくりしたものですから」

「そうですか。でも、もっとびっくりしていただくことになるかもしれませんよ」

 悪戯っぽい笑い声が聞こえた。
 社長の話によると、大型の新製品を複数準備しているようで、その新製品群だけで年間50億円を見込んでいるという。
 契約では新製品の売上に対して2.5パーセントのロイヤルティが支払われることになっているので、それだけでも1億円を超えるという。
 それを聞いて、また膝が震え出した。
 今度もなんとかお礼のようなものを口にしたが、しどろもどろになって、自分でもよくわからないようになった。

「では、期待して待っていてください」

 社長の声に反応して頭を下げたが、通話が終わってからもスマホを耳に当て続けていた。

        *

 会社に戻る頃には、心は決まっていた。
 机に座ると、引き出しから便箋を取り出し、『一身上の都合』と書き込んだ。

 退職願を封筒に入れると、受話器を手に取った。
 社長のアポイントを秘書に頼むためだ。
 残念ながら今日は空いていないということだったので、翌朝一番でお願いして、電話を切った。

        *

 その夜、夢丘に電話をして、QOL薬品の社長からの電話のことを話した。
 速攻カットの社長に退職願を出すことも伝えた。

「これ以上、針の(むしろ)に座っているわけにはいかないから、きちんと区切りを付けようと思う」

「わかりました。でも、会社を辞めて、そのあとはどうされるのですか?」

 返事は決まっていた。

「君の開業を全力で手伝う」

 声は返ってこなかった。
 でも、それは、ネガティヴな反応だとは思わなかった。
 受け入れてくれた証だと感じた。

「わたしのすべての時間を君のために使う」

 心の中の想いを全部吐き出すと、目の前の(もや)が一気に晴れて、長く続く一本の道が脳裏に浮かんできた。


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