『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~

(2)


 予想通り、早桐社長の反応は厳しかった。

「逃げるのか!」

 社長長専用応接室で退職願を渡した途端、怒声が飛んできた。

「恩知らずが!」

 鋭い目で睨まれた。
 その強い視線に一瞬、怯んだが、必死になって視線を社長にとどめた。

「今までご指導いただき、本当にありがとうございました」

 礼を失しないように丁寧に声を出した。
 しかし、社長は口を真一文字に結んで、わたしを睨みつけた。
 その瞬間、場が凍ったように感じた。
 体が固まってしまった。
 それでも耐えるしかなかった。
 退職するのはわたしの我儘(わがまま)でしかないからだ。
 どんな理由をつけても、恩を仇で返すことに違いないのだ。
 それでも、次の一歩を踏み出さなければならない。
 ここにとどまるわけにはいかない。

「本当にお世話になりました」

 思い切り頭を下げたが、どやしつけるかのように恐ろしい声が降りかかってきた。

「二度と俺の前に面を見せるな!」

 怒気が強まっていた。
 驚いて顔を上げると、席を立って物凄い形相で睨んでいた。

「クソが!」

 吐き捨てて、部屋から出た途端、これでもかというほどの音を立ててドアを閉めた。

 完全に喧嘩別れになってしまった。
 後悔したが、もうどうしようもなかった。
 仕方なく社長の残像に頭を下げて、応接室をあとにした。

        *

 後味の悪い退職になったし、社長に対して申し訳ないという気持ちは消えなかったが、それでも、区切りがついたことに安堵のようなものを覚えているのも事実だった。

 これでやっと再スタートができる。
 夢丘のためにすべての時間を使うことができる。

 そのことを考えると、体の奥底から何かエネルギーのようなものが湧き出してくるのをはっきりと感じることができた。

 といっても、問題の解決の糸口が掴めたわけではなかった。
 トップクラスのスタイリスト10人とアシスタント5人の目処はまったく立っていないのだ。
 唯一、夢丘が口にした店長の名前があったが、恩義を仇で返すようになるので、自制しているという。

「でも、話をしてみないとどうなるかわからないのだから、言うだけ言ってみたらどうかな?」

 店長だっていつまでも雇われのまま働くのではなく、独立を考えているかもしれないので、意外と乗り気になってくれるかもしれないと仄めかした。
 無理に引き抜くのではなく、店長の意志によって参加してくれるかもしれないのだ。 そうなれば、後ろ足で砂をかける行為にはならない。

「そうかもしれませんけど、今回の話は独立とは違いますし、雇われではないとしても業務委託ですから……」

「もちろんそうだけど、でも、個人事業主として仕事ができるわけだし、それに、日本一高いビルの最上階で腕を振るえるのは、美容師冥利に尽きるのではないかな」

 こんな経験は滅多にできないのだから、あの店長なら間違いなく興味を示すに違いないと背中を押した。

「とにかく、会ってみようよ」

 それでも踏ん切りが付かないようだったが、NOという言葉も出てこなかった。
 あとは任せて欲しいと告げて、これからすべきことに思考を切り替えた。

        *

 店長を口説き落とすためには何が必要か?

 夢丘と別れてから考え続けた。
 ただ一緒にやりましょうでは子供の使いになる。
 城を攻める時は堀を埋めなければならない。

 では、堀とは何か?

 それは、スタイリスト10人とアシスタント5人の目処に違いなかった。

 これがなんとかなれば、店長の心を動かせるかもしれない。
 お膳が整った席に案内すれば、あとは食べるだけなのだ。
 おいしいご飯を前にして、席を立つ人はいないだろう。

 さあ、どうする?
 神山に相談するか?

 でも、彼は美容業界にパイプを持っているわけではない。
 相談されても、困った顔になるのがわかりきっている。

 では、誰かいるだろうか?

 そこまで考えると、1人の顔が浮かんできた。
 東京美容支援開発の担当者だ。
 彼なら美容業界を熟知しているし、豊富な人脈を持っているかもしれない。
 それに、開業支援だけでなく、業務として美容師のリクルートを行っていれば、即戦力を紹介してもらえるかもしれない。
 わたしはすぐに机の引き出しからパンフレットを取り出して、ページをめくった。

 あった。
『美容師の転職・求人』と書かれてある。
 転職実績は都内トップクラスと明記されていた。
 早速、アポイントを取って、話を聞くことにした。

        *

「お話はわかりました。ただ、トップクラスの美容師をリクルートするとなると、かなりの条件を提示する必要があります」

 東京の美容師の平均年収が450万円程度なので、その1.5倍は出す必要があるという。

「ということは……、700万円ですか」

「そうですね、最低でも600万円は提示する必要があるでしょうね」

「それは若い人でも同じですか?」

「そうです。腕に若いも若くないもありませんから」

 そうだった。
 経験を積めばうまくなるという世界ではない。
 センスがなければお客様を魅了するテクニックは身に付かないだろう。

「わかりました。ということは、10人を雇うとなると、6,000万円から7,000万円を見ておく必要があるわけですね」

「そうです」

「わかりました。次にアシスタントの件ですが、これはどのくらいを見ておけばいいですか?」

「そうですね~、年収で言うと200万円から300万円と幅がありますが、優秀な人を雇うとすると、300万円はみていただいたほうがいいと思います」

「ということは、5人で1,500万円ですね。美容師と合わせると、7,500万円から8,500万円ですか……」

 想像以上の金額に声が出なくなった。
 それは夢丘も同じようで、口に手を当てて思案顔になっていた。
 それに、夢丘と店長の年収を合わせると、人件費だけで1億円という途轍(とてつ)もない金額になるのだ。誰だって声が出なくなる。

「う~ん……」

 これに見合う売上を考えると、唸るような声しか出て行かなかった。
 夢丘はまだ口に手を当てたままだった。

        *

「人件費1億円を賄うための売上って、どれくらい必要なのでしょうか?」

 東京美容支援開発を出て、近くのファミレスに入り、席に座った途端、困惑顔が続く夢丘が(すが)るような目を向けてきた。
 まだ客は多くなく、前後の席も横の席も人がいなかったが、それでも声を落として、話の内容が漏れないように気を使っているようだった。

「そうだね~、業務委託契約と神山が言っていたから、仮に50%が美容師側の取り分とすると、最低2億円が必要になるね。但し、消耗品代や利益を考慮する前だから、それを入れると、2億5千万円から3億円必要かもしれないね」

「3億……」

 現実離れしたその数字に思考の焦点が合わないのか、口が開いたままになっていた。

 それは理解できた。
 施術代を1人15,000円とすると、2万人分が必要なのだ。
 365日で割ると、1日55人。
 座席数が10だから、日に5.5回転。
 施術時間は最低2時間はかかるから、営業時間は11時間。
 10時開店で21時まで毎日フル稼働ということになる。
 飲まず食わず休まずで365日働くことになるのだ。
 しかし、それは不可能だった。
 ロボットではあるまいし、人間にそれを求めるのは無理だった。
 いや、例えロボットだとしても定期的なメンテナンスがいる。

「無理だね」

「そうですね」

 わたしがメモに書いた数字を見つめながら、虚ろな声を出した。

「断るしかないね」

 返事は返ってこなかった。
 弱々しい頷きだけが唯一の反応だった。

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