『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~

(4)


 色々あったが、その間も夢丘との関係は進展を続けていた。
 時々、泊まりに行くようになったのだ。
 その度に、同棲という言葉が浮かんできて、その甘美な響きに酔いしれそうになった。
 そして、新しい部屋を借りて二人で住むことを夢見るようになった。
 
 それでも、最優先が開業準備であることに変わりはなかった。
 夢丘は施術中に流す音楽のことが頭から離れないようだった。

「他の美容室とは違う選曲をしたいの」

 半同棲を始めてから夢丘の言葉遣いが変化してきていた。
 もう年上に対する丁寧語は出てこなくなった。
 でも、それが嬉しかった。
 より身近になれた実感が心地よかった。

「で、どうしたいの?」

「うん、今まで多くの美容室に行って、どんな曲が流れているのか調べてきたんだけど、多分、配信会社が美容室向けにアレンジしたプレイリストを使っているんだと思うの」

 だから、それを使わないで、自分で選曲してプレイリストを作りたいのだという。

「でも、それって可能なの?」

「大丈夫。調べたら、とってもいいシステムがあったの。ものすごい数の中から検索ができて、それを追加していくだけだから簡単そうなの」

 そして、ミュージシャンの名前を書いたメモをこちらに向けた。
 そこには、リチャード・クレイダーマン、カーペンターズ、アバ、ビーチボーイズ、ヨーロピアン・ジャズ・トリオ、ケニーGなどの名前が記されていた。

「開業する月はリチャード・クレイダーマンで、その翌月はカーペンターズ、そして、夏になったらビーチボーイズやアバ、秋にはヨーロピアン・ジャズ・トリオ、冬にはケニーGという感じでどうかなって思っているの」

 特に、リチャード・クレイダーマンには思い入れがあるという。

「お母さんが大ファンで、家でよく彼の曲をかけていたの。そのせいか体の一部のようになっていて、彼のピアノを聴くと、とても落ち着くの」
 
 そう言ってCDをかけてくれたが、彼女の言う通り、安らぎをもたらすメロディに間違いなかった。
 それを伝えると、思い切り顔が綻んだ。
 それだけでなく、蘊蓄(うんちく)が止まらなくなった。

 1953年にフランスのパリ郊外で生まれたリチャード・クレイダーマンは、1977年に『渚のアデリーヌ』でデビューすると、その美しいメロディと王子様のようなルックスで瞬く間にスターとなり、『イージーリスニング界の貴公子』と呼ばれるようになった。その後もヒット曲を連発し、コンサート活動を精力的に行った結果、ギネスブックで『世界で最も成功したピアニスト』に認定されるというところまで上り詰めた。日本にも多くのファンがおり、毎年のようにコンサートを行っている。

「へ~、凄い人なんだね」

「そうなの。でも、それだけではなくて、人間性も最高なの」

 ファンをとても大切にする人で、コンサートに行った人は誰もが感激するという。
 それに、日本が大好きで40年間欠かさず来日しているのだという。

「へ~、40年て、凄いね。そんな人、他にはいないよ」

「そうでしょう。だからオープンする日に流したいの。賛成してくれる?」

「もちろん」

 ピアノを弾く振りをして彼女を笑わせると、「ありがとう」といって顔を寄せてきた。渚のアデリーヌが部屋の中を満たす中、彼女の唇がわたしに触れた。

        *

 課題を一つ一つ解決していき、開業準備は遅滞なく進んでいった。
 そんな中、ある想いが膨らんで、心の中に留めておくのが難しくなっていた。
 美容室の全国展開という夢だ。
 まだ1軒目を開業していないので時期尚早と言われても仕方がないが、QOL薬品からロイヤルティが入ってきた今、計画だけでも具体化したくてうずうずしていた。
 一般的に美容室の開業資金は、従業員を雇う場合、1,500万円くらいといわれている。
 ということは、1億円あれば6店舗くらいは開業できる。
 もちろん、夢丘が1人でできるわけはないので、そのための人材確保が必要だが、今回採用した10人の美容師の中から店長に向いている人を選別していけば、その人たちのモチベーションになるだろうし、高いレベルを維持できることになる。
 つまり、今回開業する美容室を育成機関として、順次人材を送り出す仕組みを創り上げていけばいいのだ。

 1年で6店舗なら10年で60店舗か……、

 ロイヤルティが毎年入ってくる確証などないのに、捕らぬ狸の皮算用が止まらなくなった。

 更にもう一つ夢があった。
 東京だけでなく、秋田に店舗を持つことだった。
 夢丘が生まれた秋田、
 優秀な美容師の祖母の元で育った秋田、
 美容意識の高い秋田、
 でも、人口減少に直面している秋田、
 なにより、夢丘が恩返しをしたがっている秋田、
 そして、いつか彼女の両親に挨拶に行く秋田、

 わたしにとっても秋田は特別な場所なのだ。
 
 それでも、今は、それを口にする時ではないのも事実だった。

 二()追う者は一兎も得ず。

 自らに強く言い聞かせて、全国展開という夢を封印した。

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