『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
✂ 第13章 ✂ 天空のプロポーズ

(1)


 時は過ぎ、オープン前日がやってきた。
 風薫る5月、テレビに映るバラ園はピンクや赤い花で埋め尽くされていた。

 わたしと夢丘と富士澤の前には緊張した面持ちの美容師たちがいた。
 明日、特別な美容室がオープンするのだ、緊張しないわけがなかった。
 それでも夢丘は落ち着いていた。
 サロン・コンセプトを丁寧に説明したあと、施術が終わったお客様が最高の笑みを浮かべてもらえる美容室にしたいと声に力を込めた。

 続いて富士澤が檄を飛ばした。
 
「神山不動産との委託契約書に明記されていますが、皆さんへの報酬は完全歩合制の制度に沿って算出され、支払われます。つまり、お客様が皆さんの施術と接客に満足し、リピートされることによってのみ高い報酬が得られるのです」

 そして、厳しい目つきで美容師全員を見回すように視線を送った。

「私たちはプロです。プロには結果が求められます。ですので、結果を出せない者は退場を余儀なくされるということを忘れてはなりません。夢丘さんは『美容師の夢と希望を最大限に!』と言われていますが、それに甘えるわけにはいかないのです」

 美容師は皆、緊張した面持ちで聞いていたが、彼の言葉に怯んでいる美容師は一人もいないように見えた。
 全員が自分の施術と接客技術に自信を持ち、トップ美容師を目指しているからだろう。
 強い意志に満ち溢れた美容師たちを見て、わたしはめちゃくちゃ頼もしく感じたが、それは富士澤も同じようだった。

「そうです。その顔です。皆さんは選ばれた美容師です。最高のパフォーマンスを披露してください」

 ひときわ強い声を発した。

        *
        
 オープン当日は雲一つない快晴だった。
 澄み切った青空が新たな旅立ちを祝福しているようだった。
 10室の個室はすべて終日、予約で埋まっており、幸先の良いスタートを切ることになった。

 大きな期待と少しの緊張の中で朝礼を済ませ、10時丁度に10人のお客様を迎えた。
 全員に花束を贈呈すると、溢れんばかりの笑みが返ってきた。
 それは夢が現実になった瞬間だった。
 いよいよ天空の美容室の歴史が始まるのだ。
 わたしはここまで来ることができたことに感謝すると共に、お客様満足度100パーセントを目指して最大限の努力をすることを心に誓った。

        *
          
「あらっ、クレイダーマン♪」

 60代と思われるお客様の声が弾んだ。

「この曲は、確か『渚のアデリーヌ』よね」

 鏡を通して夢丘に微笑んだ。

「思い出の曲なの。結婚披露宴で入場する時に流れていた曲、あ~懐かしいわ」

 そして、『星空のピアニスト』が始まると、「キャンドルサービスで各テーブルを回る時、この曲が流れてきたのだけど、キャンドルが灯ると大きな拍手が起こって、おめでとうってみんなが言ってくれたの。嬉しかったわ」と、その時の感動が蘇ってきたようだった。

「もう30年以上前のことなのに、昨日のことのように思い出したわ。素敵な曲をありがとう」。そして、「私、クレイダーマンのファンクラブに入っているの。メンバーにこの美容室のこと教えてあげよう。クレイダーマンのピアノを聴きながらヘアメイクしてもらったら最高よって教えてあげよう」と微笑んだ。

 クレイダーマンがお客様の輪を広げてくれたことに夢丘は殊の外、喜びを感じた。
 だから、クレイダーマンに、そして、幼い頃から彼の音楽を聴かせてくれた母に、心の中で「ありがとう」と呟いた。

        *
          
 隣の個室でお客様の顔が綻んだ。

「友達に紹介されて、今の夫と初めてデートした時、レストランでこの曲が流れていたの、『星のセレナーデ』。初めてのデートだから2人とも口数が少なくて、それに何を食べたのか覚えていないけれど、この曲の美しさに心を奪われたことははっきりと覚えているの。曲が終わった時、『素敵なメロディだね』って彼が言った瞬間、『この人と結婚するかもしれない』って思ったの」
 そして、「そうだ。今度、夫を連れて来るわね。こちらで素敵な髪型にしていただいて、そのあとはライヴレストランでショーとディナーを楽しむの。そんな素敵な夜があってもいいわよね」とその日が待ち切れないというような表情になった。鏡に映るお客様の顔は幸せに満ち溢れていた。

        *
          
「グレイヘアにしようと思うのだけど」

 20年以上白髪を染めてきたお客様が思案気な表情を浮かべた。

「でも、私に似合うかしら」

 夢丘はお客様の気持ちに寄り添うように言葉を選んだ。

「ヘアカラーが抜けるまでにかなりの期間が必要ですが、カラーリンスなどを使いながら自然な形でグレイヘアに移行することは可能です」

 すると、真剣な声が返ってきた。

「もう染めることから解放されたいの。そして今の年齢の私らしくありたいの。私らしいグレイヘアになるのを手伝ってくれる?」

 夢丘は大きく頷いてから、お客様に提案した。

「ショートなヘアスタイルにされませんか?」

「えっ⁉」

 思わず声が出てしまったようだが、それを夢丘の笑みが包み込んだ。

「単に短くするのではなくて、トップや後頭部にボリューム感が出るカットを施しますと、若々しく見えると思いますよ」

 すると表情が和らぎ、「お任せするわ」と笑みを浮かべた。
 その笑みはいつか見たものと同じように思えた。
 それは、子供の頃、祖母に向かってお客様が返した笑みだった。

「ありがとう」

 祖母に向かって胸のうちで声をかけた。
 すると、「しっかりおやり」という柔らかな声が聞こえてきたような気がした。

「見守っていてね」

 今は亡き祖母の指の動きを思い浮かべながら、ハサミを入れ始めた。

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