『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
✂ 第14章 ✂ 髪神
あっという間に1年が経とうとしていた。
美容室は連日満員が続き、予約は3か月先まで埋まっていた。
すべては順調だった。
しかし、忙しすぎて、結婚式も新婚旅行もできずにいた。
なんとかしたいとは思っていたが、なんともならなかった。
それでも、夢丘は幸せをかみしめているようだった。
小さな頃からの夢が叶ったのだ。
祖母との約束を果たしたのだ。
オーナーではなかったが、特別な美容室の管理責任者になったのだ。
充実していないわけはなかった。
でも、どんなに充実しているといっても、このまま仕事だけを続けさせるわけにはいかなかった。
一生に一度のイベントをスルーするわけにはいかない。
わたしは仕事が終わった富士澤を居酒屋に誘って、相談を持ち掛けた。
「なんとかするから、絶対行くべきだと思うよ」
1周年記念のイベントが終わったら、せめて1週間休みを取って新婚旅行に出かけるべきだという。
「ただ、夢丘を指名してくださっているお客様が1週間で20人ほどいらっしゃるので、それをなんとかしないと難しいと思うのですが……」
それに、3か月先まで予約で埋まっている状況を考えると、1週間ずつずらしていくのも無理があるように思えた。お客様に多大な迷惑をかけてしまうからだ。
「まあ確かにね。そこはなんとかしないといけないよね」
さすがに富士澤も代替案は持ち合わせていないようだった。
「となると、予約が入っていない3か月先に予定を組むしかないですね」
「そうだね。でも、それまで待てるの?」
そう言われると、返事に困った。
本音を言えば、今すぐにでも出かけたいのだ。
黙っていると、「とにかく、何か方法がないか考えてみようよ」と富士澤がわたしの肩に手を置いた。
わたしは頷いたが、良いアイディアが出そうな気配はまったくなかった。
*
サプライズなプレゼントにするために夢丘には秘密にしていたが、これから先、予約の件などを話し合うためには隠し続けるわけにはいかなかった。
その夜、新婚旅行のプランを打ち明けた。
考えていたのは、バヌアツ共和国だった。
オーストラリアの東、ニューカレドニアの北に位置する南太平洋の楽園で、首都はポートヴィラ。白い砂浜とエメラルドグリーンの海が美しく輝く憧れの地。
ここを選んだのは理由があった。
半年ほど前のことだが、テレビの旅番組で南太平洋の楽園特集をやっていた時、彼女がとても行きたそうな顔をしていたからだ。
その番組では、ニューカレドニア、フィジー、バヌアツを2時間に渡って紹介していたのだが、どこよりもバヌアツに関心を示していたように思えたのだ。
バヌアツを紹介するシーンは、ゲストの男女2人がヤシの葉が揺れる海岸沿いを歩く場面から始まり、そこから海上の誘導路を渡って海上コテージに辿り着き、ドアを開けて部屋に入ると、ブーゲンビリアの花がベッド一杯に敷き詰めてあった。
それを見た妻が少女のような目をして「素敵」と呟くように言ったのだ。
そして、男性タレントが女性タレントをお姫様抱っこしてベッドルームに入っていく様子を羨ましそうに見ていた。本当に羨ましそうだった。
そのことを伝えると、妻は笑みを浮かべながら大きく頷いた。
「ありがとう、気付いてくれて。でも、それで十分。これ以上、幸せを求めたら罰が当たる」
今は美容師としての仕事に集中すべき時だと自らに言い聞かせるように言った。
「でも、一生に一度のことだから無理をしてでも行くべきだと思うよ」
「うん、行きたい。私も行きたい。でも……」
お客さんに迷惑はかけられないと首を振った。
「だったら、まだ予約が入っていない3か月後にすればどうかな?」
「う~ん。でも……」
毎月来てもらっているお客さんに1週間延ばしてくださいとは言いにくいという。
髪がちょっと伸びただけでも気にする人がいるからというのが理由だった。
「でも、そうなると、いつまで経っても行けないよ」
すると、返答に困ったように伏し目がちになった。
それを見て、これ以上この話を続けるべきではないと思った。
「何かいい方法がないか、少し考えてみようよ」
話を打ち切って、テレビをつけた。
*
結局、結論は出なかった。
お客さんを第一に考えている夢丘が自分の都合を優先することはなかった。
それでも、わたしは何とかできないかと知恵を絞り続けた。
すると、バヌアツに行けないとしても、その雰囲気が味わえるところで式を上げたらどうかという考えが浮かんできた。
すぐに、日本にあるバヌアツの大使館を探した。
しかし、日本に大使館はなかった。
外務省の海外安全情報にそのことが書いてあり、如何ともし難かった。
困った。
やっと代替案を思いついたのに、それを実現する方法がなかった。
それならと、バヌアツ料理のレストランを探したが、見つけることはできなかった。
*
ネット検索に限界を感じたので、神山に相談することにした。
彼ならわたしには知りえない色々な情報を持っていると思ったからだ。
「わかりました。バヌアツに関する情報を集めてみます」
自信ありげな声がスマホから返ってきた。
西園寺にも声をかけてくれるという。
「よろしく頼みます」
二人の人脈を合わせれば必ず求めている情報に行きつくことを信じて、通話をOFFにした。
*
オープン1周年記念日の前日になった。
しかし、神山からも西園寺からも連絡はなかった。
さすがの二人をもってしても情報に行きつかないのかと思うと残念だったが、仕方がないと諦めるしかなかった。
*
記念日当日になった。
朝から雨が降っていた。
昼には上がるそうだが、そのあとはずっと曇りが続くという。
せっかくの記念日なのに、と思ったが、天気ばかりはどうしようもなかった。
*
来店してくれるお客様には手書きのお礼カードとバヌアツ産のチョコレートを用意していた。
明治大学紫紺館の1階にある『太平洋諸島センター』で見つけたものだ。
新婚旅行には行けそうもないので、せめて何か関連のあるものをと探し出したのだ。
すべてのお客様を送り出したのは19時5分前だった。
でも、それで終わりではなかった。
1周年記念パーティーがあるのだ。
苦楽を共にしてくれた美容師とアシスタント、それに、富士澤と夢丘とわたし、加えて、オーナーの神山、更に、内装を担当した西園寺と祝うことになっていた。
場所は神山不動産が経営するホテルのパーティールームだった。
ところが、ホテルに到着すると、わたしと夢丘だけ別室に通された。
相談したいことがあるからだという。
それでピンときた。
バヌアツに関する何らかの情報が得られたに違いなかった。
一気に期待が膨らんだ。
待っていると、ホテルの女性スタッフが何やら衣装らしきものを持って、部屋に入ってきた。どこかの民族衣装のようだった。
「こちらがアイランドドレスで、こちらがナンバスになります」
ムームーのようなゆったりとした女性用の服とペニスサックの付いた腰布だった。
「皆様お待ちですので、これにお着換えください」
「えっ⁉」
思わず大きな声が出た。
アイランドドレスはまだしも、裸になってナンバスを付けるのはあり得なかった。
それを伝えると、笑い声が返ってきたが、スタッフはすぐに元の顔に戻って、「男性の方は服の上からこれを着用していただいたので大丈夫です」と当然のように言われた。
それでホッとしたが、付けてみると、違和感が半端なかった。
夢丘もおかしいらしく、口を手で押さえていた。
*
夢丘の着替えを待って、パーティールームに移動した。
何が起こるのかと、不安半分期待半分でドアの前に立った。
ホテルのスタッフがドアを開けると、それを待っていたように音楽が流れた。
驚いた。
ウエディングマーチだった。
スタッフが夢丘の手を取って、わたしの腕に導き、腕を組むような格好になった。
そして、ゆっくり歩き出すように促された。
出席者たちは両側に一列になって並んでいた。
その中に宮国もいた。
前を通ると、「おめでとう」という声と共に花が投げられた。
その瞬間、夢丘が口に手を当てた。
目には涙が溜まっていた。
溢れるのに時間はかからなかった。
わたしは一生懸命我慢していたが、それも限界に達した。
溢れるのを止めることはできなかった。
目の前には祭壇のようなものがあった。
そこに神父の格好をした男性が立っていた。
バヌアツ出身だと自己紹介された。
そして、テレビなどでお馴染みのあの場面が再現された。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しきときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、愛し続けることを誓いますか?」
「はい、誓います」
そして、促されるままにキスをすると、会場から拍手が起こった。
「おめでとう」という声がいくつも追いかけてきた。
感涙は最高潮に達した。
*
まさか、結婚式と披露宴を用意してくれているとは思わなかったが、それで終わりではなかった。ホテルの最上階のスイートルームを用意してくれていたのだ。
ベッドの上には花が敷き詰められていた。
ハイビスカスだった。
テーブルの上には写真が飾られていた。
一つは、美容院がオープンした時に撮った全員の集合写真だった。
もう一つは、大学院時代に撮った4人の写真だった。
そして、その横には色紙が置いてあった。
美容師とアシスタント全員、富士澤、神山、西園寺、宮国が温かい言葉を綴ってくれていた。
それだけではなかった。
直角教授とQOL薬品の社長、東京美容支援開発の担当者のものまであった。
その一つ一つに目を通していると、また涙が止まらなくなった。
*
「こんなに幸せでいいのかしら」
先程のことを思い出しているようで、夢丘はまた涙声になった。
「本当にありがたいよね。感謝してもしきれないよね」
一人一人の顔を思い浮かべると、またグッときた。
どれだけ助けられてきたか、
どれだけ勇気をもらってきたか、
どれだけ励まされてきたか、
かけがえのない人たちに恵まれて、本当にありがたかった。
でも、それ以上に感謝しなければいけない人がわたしにはいた。
夢丘だ。
彼女と出会わなかったら、
彼女と付き合わなかったら、
彼女がプロポーズを受け入れてくれなかったら、
こんな幸せな瞬間を味わうことはできなかった。
わたしは今までなかなか言えなかった彼女への感謝を口にした。
「君と出会ったおかげで人生が変わった。君と一緒に仕事を始めた時、夢じゃないかと頬を抓った。一生のパートナーとしてわたしを選んでくれた時には天にも昇る気持ちになった。でも、時々これは本当に現実なのか、ある日パッと消えてしまうんじゃないか、と不安になる時があった。それくらいわたしにとって現実離れしたことだった。もし君と出会わなかったらと思うと、ぞっとする。こんなに前向きに、こんなに生き生きと毎日を送れるのは君のお陰なんだ。世界中の感謝の言葉を集めて君に贈りたい。それでも足りないけど、毎日毎日贈り続けたい。死ぬまでありがとうと言い続けたい」
すると、わたしの顔をじっと見ていた彼女の目に涙が溢れた。
「私こそ……、あなたの……」
絞り出すような声が届いたが、それを嗚咽が覆った。
わたしはたまらなくなって彼女を抱きしめ、唇を合わせた。
すると、初めて抱き合った時のことが蘇ってきた。
あの時の感激が蘇ってきた。
「ありがとう」
そしてまた唇を合わせ、そのままの状態でもう一度呟いた。
「本当にありがとう」
*
その夜、新婚旅行の夢を見た。
ヤシの葉が揺れる海岸沿いを歩き、そこから海上の誘導路を渡って海上コテージに辿り着き、部屋のドアを開けると、ベッドいっぱいに敷き詰められた真っ赤なハイビスカスの花が出迎えてくれた。
それを見た妻が少女のような目をして、「素敵」と言った。
わたしは妻をお姫様抱っこして、ベッドルームに入った。
テレビで見た通りのことをして笑い合った。
それがくすぐり合いなった。
笑いながら唇を合わせたが、すぐに夢中になり、舌を絡ませた。
そしてお互いの服を脱がせながら体中にキスをした。
たまらなくなって愛し合った。
何度も愛し合った。
日付が変わってからも愛し続けた。
翌朝、睡眠不足の目をこすりながらも早起きをして、コテージから外に出た。
浜辺はまだ薄暗かった。
砂の上に座るわたしたちは波の音を聞きながら、その瞬間を待った。
「あっ、出てきた!」
妻は立ち上がり、波打ち際へ歩き出した。
朝陽が顔を出そうとしていた。
空が曙色に染まり始めていた。
爽やかな風が妻の髪を優しくなびかせ、その髪がきらきらと光りだした。
この世のものとは思えない美しさに、目を奪われた。
まるで妻の髪に神が宿ったように感じた。
「かみ……かみ……」
思わず呟いた言葉にハッとして、口を手で押さえた。
これは降臨だと思った。
これから先を示す言葉が天から降ってきたのだ。
「ああ~」
わたしは空を見上げ、この奇跡に感謝した。
そして天から贈られた言葉を口に出した。
「髪神」
その瞬間、眩い黄金色の光が煌めいた。
「何か言った?」
振り向いた妻は神秘的な光を纏い、女神のような微笑みを浮かべていた。
了