『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~

(3)


 最後に教室を出て、昼食は1人で食べた。
 彼らの輪の中に入ることは気が進まなかった。
 食欲がなかったので、ざるそばにしたが、それでも全部は食べられなかった。
 もちろん味は何もしなかった。
 40歳にもなって一言も発言できない自分を許せなかったし、とにかく惨めだった
 ワイワイと盛り上がる彼らのテーブルを避けるように、食堂をあとにした。

 惨めな思いは午後も続いた。
 そのせいか、講義に集中できなかった。
 ディスカッションに加わることもできなかった。
 中途半端な状態のまま、すべての講義が終わった。

 自分にがっかりして資料をカバンにしまっていると、突然、「高彩さん、飲みに行きませんか」と西園寺が誘ってきた。

「えっ、あ~」

 躊躇ったが、それに構わず両腕を二つの手が引っ張った。
 神山と宮国だった。

「行きましょう、行きましょう」

 有無を言わせず連れていかれた。

        *

「乾杯!」

 生ビールが溢れんばかりに注がれた4つのジョッキが大きな音を立てた。

「く~、講義のあとのビールは旨いね~」

 神山が一気に飲み干した。

「このために生きているようなもんですからね」

 西園寺も続いて飲み干した。

「2人とも強いね」と言いながら宮国も飲み干した。

 取り残されたわたしはまだ四分の一も飲んでいなかったが、3人がわたしを見て、視線がすぐにグラスに移った。
〈早く空けろ〉と言っているみたいだった。
 仕方なくわたしも一気に飲み干した。

「そうでなくっちゃ!」

 3人の笑顔が弾けた。

        *

 ビールがワインに変わった頃、アルコールのせいか、惨めな気持ちはどこかに飛んでいた。
 それは、3人が講義の時の話を一切しなかったことが影響しているように思えた。
 ありがたかったし、その気遣いが嬉しかった。
 優しい人たちだなと思った。
 心の中で〈ありがとう〉と何度も呟いた。

        *

 あっという間にワインが2本開いた。
 酔いが回ってきたせいか、誰もがよく笑った。
 そして、饒舌(じょうぜつ)になった。

「西園寺公親って、公家みたいな名前だな」

 神山が軽口を叩いた。

「もしかして、公家の子孫?」

 宮国もそれに乗った。

「公家ですか?」と言った瞬間、西園寺は真顔になった。
 そして、「実は平安時代から続く公家なんです」と言って皆を驚かせたが、「と言いたいところですが、そんなことあるはずないですよ」と悪戯っぽく笑った。

「でも、姓が西園寺で名が公親とくれば、公家の出としか思わないよ」

 神山が更に突っ込むと、西園寺が手を振ってかわした。
 それでも、神山は諦めなかった。

「公家じゃなければ、先祖は庄屋だったりして」

 手を緩めなかった。
 それに対して西園寺は「もう止めましょう」と胸の前で×の仕草をしたが、わたしには心当たりがあった。それをぶつけた。

「西園寺さんは建設会社に勤めているんだよね。ひょっとして西園寺建設?」

 すると、神山と宮国が〈アッ〉というような表情になって、一斉にわたしを見た。
 そして西園寺へ視線を移した。

「……ばれちゃいましたか」

 西園寺が頭を掻いた。

「西園寺建設の跡取り?」

「跡取りなんて……。確かに父は西園寺建設の社長ですし、私は長男ですが」とそこで切って、ワインを一気に飲み干した。
 そして、西園寺建設は上場企業だから世襲で社長が決まるわけではなく、指名委員会で決定されること、『社長の息子だからといって跡を継げると思うな。私は社員の中で最も優秀な人物を推薦するつもりだし、社内に候補者がいなければ迷わず社外から探す』と入社時に父親から言われたこと等々を、ワイン色に染まった顔で説明した。

        *

 その週の日曜日、気合を入れるために美容室へ向かった。
 夢丘の顔を見れば力が湧いてくると思ったからだ。

「大学院は、どうですか?」

 シャンプーをしながら夢丘愛乃が話しかけてきた。

「もう大変。難しい講義が一日中続くし、宿題は多いし、ディスカッションの準備もあるし」

「ディスカッション、ですか」

「そう。テーマを決めて受講生全員で喧々諤々(けんけんがくがく)意見を述べ合うんだけど、レベルが高くて、ついていくのが大変」

「そうですか……」

 そこで声が消えて、黙々とシャンプーを洗い流し、コンディショナーを施し、頭皮マッサージが始まった。

 わたしは気持ち良くなってほわ~んとしていたが、手を動かしながらも彼女は「そのテーマって」と興味深そうに訊いてきた。

「うん、与えられたテーマは付加価値なんだ」

「付加価値、ですか?」

「そう。独自価値と言い換えてもいいのだけど、要は競合会社に比べてどれだけ差別化できるものを持っているか、ということを話し合っているんだ」

「そうですか、差別化ですか……」

 温かいタオルを首の下に挟みながら独り言のように呟いたが、続けて、「うちの美容室にその付加価値はあるのかしら」と自問自答のような声が耳に届いた。

 わたしはすぐに頷いたが、彼女は気づかなかったようだった。
 いつものようにトリートメントを洗い流して、濡れた髪を拭いてから椅子の角度を元に戻し、元の席に誘導するためにわたしの先を歩いた。

 わたしは答えを知っていた。
 それは絶対に間違いないと確信できるものだった。
 だから、後姿に向かって心の中で声をかけた。

「この美容室の付加価値は夢丘愛乃、君自身だよ」

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