『天空の美容室』 ~あなたと出会って人生が変わった~
(4)
「先週の続きを始めよう。付加価値についての新たな切り口を考えた人、いるかな?」
教授はゆっくりと教室全体を見回した。
「はい」
わたしは誰にも先を越されないように真っ先に手を挙げた。
前回は気後れして発言できなかったから、今日の講義ではディスカッションの口火を切ると決めていたのだ。
教授はわたしを指差し、発言を促した。
「先週は付加価値を独自価値と言い換えて、研究開発など主に技術的な観点からの発言が多かったように思います」
緊張のせいか声が少し震えたが、構わず続けた。
「当然のことながら技術的優位性はとても大事だと思います。技術立国として世界をリードすることを国是としている日本にとっては最優先に取り組まなければいけないことだと思います。しかし、それだけでは片手落ちになる可能性があります。技術的優位性と同じくらい、いえ、それ以上に大事なものがあるからです。それは、ブランド優位性です」
その途端、教授が〈おっ〉というような顔をした。
関心を示してくれたようだ。
的が外れていないことに安堵して、話を続けた。
「日本はモノつくり大国を目指して加工技術や生産技術を磨いてきました。その結果、世界から一目置かれる存在になりました。しかし、」
机の上に置いていた経済誌の最新号を手に取って、ブランド・ランキングのページを開けた。
「ご承知の通り、ブランド・ランキングの上位はアメリカの企業が独占しています。残念ながら日本企業はベストテンに1社も入っていません。何故でしょうか」
教授が身を乗り出した。
「ブランド価値の重要性を理解している経営者が少ないからです」
断言したが、すぐに心配が襲ってきた。
経営者でもない自分がこんな偉そうなことを言っていいのだろうかと急に弱気になった。
それでも、拍手がそれを打ち消してくれた。
神山だった。
その通りだというように何度も頭を縦に振った
続いて西園寺が、そして宮国が拍手をした。
教室中が拍手に包まれるのに時間はかからなかった。
皆、出身企業の現状を頭に思い浮かべているのかもしれなかった。
「その通り!」
教授が拍手をしながら大きな声で言った。
「その通りだ。ブランド価値が企業の存在価値に直結する時代になっているというのに経営者の多くはそれを理解していない。製品力を磨くことにしか関心がない。嘆かわしいことだ」
企業の資産には有形資産と無形資産がある。
有形資産とは製品や土地、建物、製造設備や有価証券などをいう。
対して無形資産とは文字通り形のない資産、つまり、手に取って見ることができない資産のことで、特許や商標、ノウハウといったものを指す。
少し前までは有形資産の競争力が企業の競争力に直結していた。
しかし、今は無形資産の競争力なくして企業の競争力なしとまで言われるようになった。
特にブランド価値は近年その重要性が高まるばかりである。
「続けて」
促されたわたしは教授の顔を真っすぐに見つめて、声に力を込めた。
「外国の企業はブランド価値の重要性を理解し、その価値を高める努力を何十年も、いや、何百年も続けてきました。しかし、日本の企業はどうでしょうか」
そこでその先を言おうかどうか一瞬躊躇ったが、言うべきだという心の声に背中を押された。
「わたしは20年近く医薬品メーカーで営業の仕事をしてきました。その会社はQOL薬品です」
すると、へ~、というような声がいくつも上がった。
「ご存知の通り、医療用医薬品だけでなく家庭用医薬品も販売している総合医薬品会社です。テレビで宣伝をしているのでご存知の方も多いと思います」
すると、多くの人が頷いてくれた。
「ブランド戦略としては社名を徹底的に押す戦略を取ってきました。『命を守るQOL』という宣伝を見たことがある人も多いのではないかと思います」
知ってる、という声がいくつも聞こえてきた。
「それが功を奏したせいか、最近の調査では認知率が70%を超えているようです。これは中堅の医薬品会社としては高い認知率であり、医療用医薬品の営業に携わっていたわたしもその恩恵にあずかってきました。でも、せっかくの高い認知率を家庭用医薬品に活かせていないという問題を抱えています」
そこで主要な3製品を紹介した。
総合感冒薬の『ララ』、胃腸薬の『スキロン』、最近発売した抗菌剤『アータック』
「残念ながらどれもが低いシェアに苦しんでいます。『ルル』に対抗した『ララ』は独自成分を処方しているにもかかわらず、まがい物のような扱いを受けています。また、飲むとスッキリするというところから名付けた『スキロン』も胃腸薬というイメージと結びつかないせいか、一桁のシェアに甘んじています。しかし、それ以上に悲惨なのが『アータック』です。〈菌にアタック!〉というところからネーミングしたのですが、テレビ宣伝をいくらやっても売上が上がってこないのです。洗剤の『アタック』に著しく似ているので、抗菌のイメージが湧かないのが大きな原因かもしれません。せっかく社名の認知率が70%を超えているのにもったいないですよね」
そこで声を止めると、ほとんどの人が頷いているように見えた。
それに力を得て、本題に入ることにした。
「実は、家庭用医薬品の各ブランドは誰もが知っている大手広告代理店によって提案されたものなのです」
その企業名を言うと、お~、という声が上がった。
「聞くところによると、代理店の幹部が自信満々でプレゼンしたので、経営陣からはなんの質問も反対意見もなく決定したようです。その幹部と昵懇の間柄にある広告宣伝部長が強く推したことも大きかったようです」
ま~そんなもんだよな~、というようなムードが教室内に流れた。
「3製品共に出足は悪くありませんでした。しかし、売上の大幅増を狙って宣伝を増やしても思うように売上は伸びませんでした。それでも広告代理店はまだ宣伝量が足りないとプッシュしたようですが、増やしても増やしても売上に繋がらなかったのです。費用対効果という面では完全に失敗でした」
先を続けようとした時、教室内から声が上がった。
「会社は何も手を打たなかったのですか?」
教室内で一番若そうな女性からだった。
わたしは頷くしかなかった。
「経営陣は営業部門を叱責するばかりでした。売上低迷の原因を営業部の努力不足と決めつけたのです。家庭用医薬品部門の営業部長は当時の社長から厳しい言葉を浴びせられたと聞きました。『莫大な広告宣伝費を投入しているのに、この売上はなんだ! 営業部は何をしているのだ! 死ぬ気でやれ、死ぬ気で!』と」
言い終わった途端、同情のため息のようなものが教室のあちこちから漏れた。
それを聞いていると、辞めたとはいえ、これ以上会社の悪口を言うのはどうかという気になってきた。
しかし、ここで止めることはできない。
これからが重要なのだ。
意を決して言葉を継いだ。
「会社のイントラネットに『提案箱』というアイコンがあります。これをクリックすると、『会社への提案』というフォルダが表示され、『経営課題解決への提案』『新製品・新サービスの提案』『売上増につながる販売促進策の提案』『コスト削減の提案』などから投稿したいものを選んで提案することができるようになっています。わたしはあるアイディアを心に温めていました。それを提案箱に投稿したのです」
カバンの中から当時提案した内容が記されている書類を取り出した。
「投稿したのは『企業ブランドと製品ブランドの統合』という提案でした。最も大事にしなければならないのは『QOL』という企業ブランドであり、製品ブランドは企業ブランドに合致させなければならない、と強調しました。ですので、感冒薬は『QOL風邪薬』、胃腸薬は『QOL胃腸薬』、抗菌剤は『QOL抗菌スプレー』にすべきだと結論づけたのです」
そこで書類をめくって新たなページを開くと、皆の視線がそこに集まっているように感じた。
「キャッチフレーズについても提案しました。『命を守るQOL』を参考に、『あなたを風邪から守るQOL風邪薬』、『あなたの胃腸を守るQOL胃腸薬』、『あなたを菌から守るQOL抗菌スプレー』へ変更するように訴えたのです」
すると、「そっちの方がいいよ」という声が聞こえた。
それに反応するように、〈そうだそうだ〉というような頷きが増えた。
すると、今まで黙って聞いていた教授がわたしを見つめた。
「会社がそれを採用することはなかったんだね」
その通りだった。
提案に対する回答は何も無かった。
わたしはただ頷くことしかできなかった。
これ以上話すことはなかった。
「以上で終わります」と言って脱力感を覚えながら椅子に座ると拍手が返ってきたが、それが収まると、すぐさまアパレル会社の女性が手を上げた。
そして、総合酒類メーカー、健康食品会社と発言が続いたが、誰の発言も耳に入ってこなかった。
抜け殻のようになったわたしの鼓膜はすべての声を拒否しているみたいだった。