荒廃した世界で、君と非道を歩む
 表面に無数の雫を浮かべたアイスキャンディーにかぶりつき、口の中に広がるソーダの味に集中する。
 まるで先程の一件が無かったと思わせるほどに、目の前で窓の外を眺めながらアイスキャンディーを食べ続ける志筑は落ち着いていた。
 焦りを覚えているのは自分だけなのだろうか。

「ねえ、志筑」

 彼の名前を口にする度に、胸の深く手の届かない所がむず痒く感じる。
 この世で生きる志筑という存在を証明する事柄は、彼の名前しか知らないままであった。
 誕生日も、出身地も、血液型も、好物も、嫌いな物も、何処で何をしてきて今この場にいるのかなど何も知らない。
 蘭は未だ志筑について無知に等しかった。

「失望した?」

 静かな室内に蘭の感情の籠らない無機質な声が響く。
 時が止まったように志筑がアイスキャンディーを咥えたまま固まった。
 右手に持っているアイスキャンディーから目を逸らし、顔を上げた蘭は真っ直ぐと志筑を見つめる。長い前髪から覗く三日月のように鋭い目は、決して蘭をその瞳に映すことはなかった。

「やっぱり、やめよっか。こんなこと」

 自分の我儘で始めた逃避行。我儘で始めたのなら、終わらせるのもまた我儘である。
 短気な彼の気に触れるような我儘を口にしたとしても、志筑は頑なに窓の外を見つめたままだった。
 このままこの瞳に自分が映ることがないまま終わってしまうのだろうか。歪で許されないこの関係は、今この場で終わってしまうのだろうか。

「もう続かないよ。志筑も分かってるんだよね、このままじゃ捕まるって。新汰には気づかれてる、きっと女将さんにも」

 いっその事逃げ出してしまえばよかっただろうか。新汰達に手料理を振る舞われた後にでもこの旅館を出ていれば、志筑と新汰があんな話をせずに済んだかもしれない。
 海岸で蘭達と出会い、車に乗せて街を走ったあの時点で新汰は気づいていたのだろう。
 志筑が“そう”であると。

「……ああ、そうだろうな」
「最早時間の問題だよ。今ならきっとマシな未来になる」
「マシな未来って、どんな未来だ?」

 その時、目が合った。
 ボサボサの黒く長い前髪の間から見える三日月と、丸い漆黒の黒曜石が見つめ合う。

「それは……」

 自分で言っておきながら、いざ問われると何も答えられない。自分が思い描くマシな未来とは、一体何なのだろうか。
 答えられないまま、手の甲を伝う液体と化したアイスキャンディーに視線を落とす。
 その行為が志筑には逃げいているように見えたらしい。向かい側から苛立ちが入り混じる鋭い声が聞こえた。

「目を逸らすな。俺は、一番初めにお前に言ったよな、何があっても逃げるなよって。お前はその約束をやぶるのか?」
「ち、違う! そういう訳じゃない! ただ、ただ、分からなくなっただけで……。何が最善なのか、分からないだけで……」
「んなもの、あるわけ無いだろ」

 それまで怒りを綯い交ぜにした声色をしていたというのに、この瞬間だけは随分と呆けているようだった。
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