触れる指先 偽りの恋
不意にはじまる
「ありがとうございました。お気をつけていってらっしゃいませ」
下げ台のカップを回収していた手を止め、店を出ていくお客様に声をかける。
さらりと立ち去るひともいるけれど、常連様の多いこの時間帯は、わざわざ足を止めて「ごちそうさまでした」と返してくださる方も多い。
忙しい朝、心温まるひとときだ。
今年四月から派遣されて、半年弱。このカフェ・ルチアーノは、私の勤めるニューグランド株式会社が経営している飲食ブランドのなかの、主力カフェだ。東京23区を中心に展開しているチェーン店ではあるものの、長居しやすい雰囲気を謳っており、お客様からの評判は上々だ。広々とした座り心地重視のソファ席、仕事もできるコンセント付きの一人掛け席。どちらもクッション性にこだわったリッチな椅子なので、長時間の作業にも耐えられる。ちょっとしたパソコン仕事や打ち合わせにも最適。
特に私が派遣されているこの店舗は、地下鉄の改札を出てすぐ目の前にあるので、地下道で直結しているオフィスビルに通う会社員たちで、いつも活気に溢れている。
この、朝の時間帯は、出勤前のサラリーマンが多い。コーヒーだけ飲んでいく方もいれば、モーニングセットで朝食を召し上がる方もいる。
改札階とビルの入り口の中間、半地下の通路に作られた店舗なので、一日中日差しを浴びられないのが唯一の難点だけれど、リピーターや常連さんが多く、店の雰囲気も日々の売り上げも、良い意味で落ち着いた店だ。
洗い物を始めるためキッチンに下がろうとしたところで、杖をついた年配の女性から「すみません……」と声を掛けられた。
消え入るような声だったから、膝を折ってぐっとお客様の口元に耳を近づける。
「はい。いかがなさいました?」
「総合病院に行きたいんだけど……」
友人のお見舞いに来たのだが、迷ってしまったのだと言う。お客様の言った総合病院は改札の反対側だ。連絡通路をまっすぐ歩いていけば、反対の出口に着くけれど、如何せん口頭では説明し辛い。
レジの後方で在庫をチェックしていた店長に駆け寄って、「すみません、ちょっと道案内してきます」と伝え、ご婦人と一緒に店を出た。
朝のラッシュはだいぶ落ち着いているし、レジにも列はできていないから大丈夫だろう。戻ったら、急いで洗い物を片付けよう、と決意して。
無事に連絡通路まで案内したので、後はまっすぐ進んだ先のエスカレーターに乗れば良いのだけれど、ご婦人が持っていたお見舞い品である果物が重かったので、地上まで一緒に行くことにした。九月とはいえまだ暑い。これだけの荷物を持って歩くのも、体力を消耗するだろう。
地上に出てしまえば、すぐ目の前に見えるのが病院の正門だ。
さすがに中まで入るわけにはいかないので、病院入り口にある、守衛さんの詰め所前まで行って、預かっていたお土産を返した。あそこで立っている警備の人が手助けしてくれれば良いけれど、と思っていると、ご婦人はこちらが恐縮してしまうくらい、何度も頭を下げた。小さな背中が正門をくぐって、見えなくなるのを見届けて、速足で店舗へ戻る。
「すみません、戻りました」
下げ台のカップやトレイをまとめていた店長に声をかける。
「武井さん、どこまで行ったの?」
そう問われて、正直に答える。しかし思わず小声になってしまった。
「その……、A1出口のエスカレーター上まで、です」
すると店長は小さくため息を吐いた。続いて、質問を投げかけられる。
「それは店内の状況を確認して、そこまで行っても大丈夫と判断したのよね?」
「もちろんです。ラッシュは終わっていましたし、店内の清掃も間に合うと判断しました」
最悪、自分の休憩時間を十分削れば、問題ない。
「自分の休憩時間を充てるっていうのは、無しだからね」
しかし考えていたことを読んだかのように言い当てられて、うっと詰まる。
店内は先ほどと変わらず落ち着いているので、最悪の方法は取らなくて良さそうだけれど。
店長は持っていたカップを一度置くとこちらに向き直った。自然と私も背筋を伸ばす。
「丁寧な接客は評判も良いし、実際本部にも、この店の口コミにも感謝の声として届いていて、武井の長所だと思う。でも全部のことを一人で解決できるわけじゃないんだから、そこの判断は間違えないようにね。人助けもいいけど、それで他の人に皺寄せがいったら意味ないんだから」
はい、と返事をして、店長が下げようとしていた食器を引き継いだ。
「それに、休憩にやることあるんでしょ」
「えっ」
「シーズン商品の企画案、締切今週末じゃないの?」
「あ、はい」
「出すなら、ちゃんとブラッシュアップしないと」
「はい……」
「意見必要だったら、デスクに置いておいてね。手が空いてるようだったら、バイトの子たちに聞いてもいいし」
「はい、ありがとうございます」
都内でも売上の高いこの店舗を任されて三年になるという佐山さんは、正社員のみならずアルバイトのひとりひとりをよく見ている理想的な店長だ。今回だって、ただ怒るのではなく、自分で自分を見つめ直すよう、導いてくれる。
ただ……私はついついお節介で、良かれと思って人に声をかけてしまう。困った人がいたら力になりたいと思ってしまうのだ。
そう言うと、みんな「優しいね」とか「親切だね」と褒めてくれるけれど、実際はちょっと違う。そのまま見ないふりをして、後になってどうだったかなとかやっぱりああすれば良かった、と後悔するのが嫌なだけなのだ。
他人を巻き込んでまですることじゃない、というのはわかっている。さっきだって、駅員さんのところに案内すれば、きっと私より丁寧に病院の場所を教えてくれただろう。それでも。自分に声をかけてくれた人には、できる限り力になりたいと思ってしまう。それが私の性分なのだ。
下げ台のカップを回収していた手を止め、店を出ていくお客様に声をかける。
さらりと立ち去るひともいるけれど、常連様の多いこの時間帯は、わざわざ足を止めて「ごちそうさまでした」と返してくださる方も多い。
忙しい朝、心温まるひとときだ。
今年四月から派遣されて、半年弱。このカフェ・ルチアーノは、私の勤めるニューグランド株式会社が経営している飲食ブランドのなかの、主力カフェだ。東京23区を中心に展開しているチェーン店ではあるものの、長居しやすい雰囲気を謳っており、お客様からの評判は上々だ。広々とした座り心地重視のソファ席、仕事もできるコンセント付きの一人掛け席。どちらもクッション性にこだわったリッチな椅子なので、長時間の作業にも耐えられる。ちょっとしたパソコン仕事や打ち合わせにも最適。
特に私が派遣されているこの店舗は、地下鉄の改札を出てすぐ目の前にあるので、地下道で直結しているオフィスビルに通う会社員たちで、いつも活気に溢れている。
この、朝の時間帯は、出勤前のサラリーマンが多い。コーヒーだけ飲んでいく方もいれば、モーニングセットで朝食を召し上がる方もいる。
改札階とビルの入り口の中間、半地下の通路に作られた店舗なので、一日中日差しを浴びられないのが唯一の難点だけれど、リピーターや常連さんが多く、店の雰囲気も日々の売り上げも、良い意味で落ち着いた店だ。
洗い物を始めるためキッチンに下がろうとしたところで、杖をついた年配の女性から「すみません……」と声を掛けられた。
消え入るような声だったから、膝を折ってぐっとお客様の口元に耳を近づける。
「はい。いかがなさいました?」
「総合病院に行きたいんだけど……」
友人のお見舞いに来たのだが、迷ってしまったのだと言う。お客様の言った総合病院は改札の反対側だ。連絡通路をまっすぐ歩いていけば、反対の出口に着くけれど、如何せん口頭では説明し辛い。
レジの後方で在庫をチェックしていた店長に駆け寄って、「すみません、ちょっと道案内してきます」と伝え、ご婦人と一緒に店を出た。
朝のラッシュはだいぶ落ち着いているし、レジにも列はできていないから大丈夫だろう。戻ったら、急いで洗い物を片付けよう、と決意して。
無事に連絡通路まで案内したので、後はまっすぐ進んだ先のエスカレーターに乗れば良いのだけれど、ご婦人が持っていたお見舞い品である果物が重かったので、地上まで一緒に行くことにした。九月とはいえまだ暑い。これだけの荷物を持って歩くのも、体力を消耗するだろう。
地上に出てしまえば、すぐ目の前に見えるのが病院の正門だ。
さすがに中まで入るわけにはいかないので、病院入り口にある、守衛さんの詰め所前まで行って、預かっていたお土産を返した。あそこで立っている警備の人が手助けしてくれれば良いけれど、と思っていると、ご婦人はこちらが恐縮してしまうくらい、何度も頭を下げた。小さな背中が正門をくぐって、見えなくなるのを見届けて、速足で店舗へ戻る。
「すみません、戻りました」
下げ台のカップやトレイをまとめていた店長に声をかける。
「武井さん、どこまで行ったの?」
そう問われて、正直に答える。しかし思わず小声になってしまった。
「その……、A1出口のエスカレーター上まで、です」
すると店長は小さくため息を吐いた。続いて、質問を投げかけられる。
「それは店内の状況を確認して、そこまで行っても大丈夫と判断したのよね?」
「もちろんです。ラッシュは終わっていましたし、店内の清掃も間に合うと判断しました」
最悪、自分の休憩時間を十分削れば、問題ない。
「自分の休憩時間を充てるっていうのは、無しだからね」
しかし考えていたことを読んだかのように言い当てられて、うっと詰まる。
店内は先ほどと変わらず落ち着いているので、最悪の方法は取らなくて良さそうだけれど。
店長は持っていたカップを一度置くとこちらに向き直った。自然と私も背筋を伸ばす。
「丁寧な接客は評判も良いし、実際本部にも、この店の口コミにも感謝の声として届いていて、武井の長所だと思う。でも全部のことを一人で解決できるわけじゃないんだから、そこの判断は間違えないようにね。人助けもいいけど、それで他の人に皺寄せがいったら意味ないんだから」
はい、と返事をして、店長が下げようとしていた食器を引き継いだ。
「それに、休憩にやることあるんでしょ」
「えっ」
「シーズン商品の企画案、締切今週末じゃないの?」
「あ、はい」
「出すなら、ちゃんとブラッシュアップしないと」
「はい……」
「意見必要だったら、デスクに置いておいてね。手が空いてるようだったら、バイトの子たちに聞いてもいいし」
「はい、ありがとうございます」
都内でも売上の高いこの店舗を任されて三年になるという佐山さんは、正社員のみならずアルバイトのひとりひとりをよく見ている理想的な店長だ。今回だって、ただ怒るのではなく、自分で自分を見つめ直すよう、導いてくれる。
ただ……私はついついお節介で、良かれと思って人に声をかけてしまう。困った人がいたら力になりたいと思ってしまうのだ。
そう言うと、みんな「優しいね」とか「親切だね」と褒めてくれるけれど、実際はちょっと違う。そのまま見ないふりをして、後になってどうだったかなとかやっぱりああすれば良かった、と後悔するのが嫌なだけなのだ。
他人を巻き込んでまですることじゃない、というのはわかっている。さっきだって、駅員さんのところに案内すれば、きっと私より丁寧に病院の場所を教えてくれただろう。それでも。自分に声をかけてくれた人には、できる限り力になりたいと思ってしまう。それが私の性分なのだ。
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