触れる指先 偽りの恋
 その後、予定通り休憩を取って、バックヤードで事務作業をするという店長にかわって、アルバイトの子達に指示を出しながら在庫確認をしていたときだった。

「ねえねえ、夏穂さん」

 アルバイトの中では古株の木下さんが、レジの合間にすーっと近寄ってきて、耳打ちしてくる。彼女は私より三つほど年下の大学院生だ。
 店にはフリーターや学生のアルバイトさんが多いけれど、大学院に通う彼女とは意気投合する部分が多く、休憩中にもよく喋る間柄だった。というのも、私も大学院に進み修士号を取ってから就職したので、同じ院経験者として、慕ってくれているところがあるのだった。
 といっても彼女は博士まで進むというので、私よりよっぽど優秀な学生なのだろうけれど。
 
 真面目で、クオリティの高い接客をする彼女が、わざわざ歩み寄ってくるなんて珍しい。そう思いながら視線を追うと、そこには、最近よくいらっしゃる、上質なスーツを着た男性――貴島(きじま)さんの姿があった。
 三十代半ばだろうか。大柄なわけではないけれど、鍛えているとわかる程度にがっしりした肩幅にぴったりと合うスーツは、高級感を感じさせる。なにより、決して低くはない身長に対して足が非常に長く見えた。これはスーツのせいだけではなく、本人の体型だろうか。軽くなりすぎない程度に毛先を少し遊ばせた髪は、切れ長な瞳と同じく真っ黒だった。

「またいらしてますね、あの方」

 昼休みも終わり、お茶の時間までまだある……といういわゆるアイドルタイムの店内は空いていて、その彼は一人掛けのソファが向き合ったテーブル席に座り、何やら手元のタブレットに目線を落としていた。ここから見ると、伏し目がちのその表情は憂いを帯びているようで、思わずどきっと胸が高鳴る。
 
 「確かに、最近よくいらっしゃるね」

 内心の動揺を隠すようにそういえば、木下さんは「ですよね」と声を潜めて頷く。

「ていうかめちゃくちゃカッコよくないですか?」
「貴島さん?」
 
 思わず聞き返すと、「はい! ていうか、なんで名前知ってるんです!?」と食いつかれた。

「いや違うよ、この前ちょうど表の掃き掃除してるときに、電話がかかってきたみたいで……」

「はい貴島です」と名乗って電話に出る瞬間に、立ち会ったのだ。

「えー、でもそれでわざわざ名前を覚えてるなんて、やっぱり夏穂さんもタイプなんだ〜」
 
 ふふふと満面の笑みを向けられてしまう。

「ちょっと! お客様のことをそんなふうに言わないの!」
 
 咄嗟に社員らしく注意をすると、木下さんは首を竦めた。

「わかってますって。でも夏穂さん、好みのタイプとか聞いても全然答えが要領得ないし。あーこれで納得。正統派イケメンが好きなんですね」
「そう……なのかな」

 うんうん、と頷いている木下さんに、首を傾げる。
 正直今まで、どんな人がタイプか、なんてあまり考えたことがなかった。
 これまでの恋人たちも、相手から告白されてOKして付き合い始めた人がほとんどだった。ただ結局、あまり長くは続かなかったのだけれど。
 
 確かに貴島さんは格好良いと思うけれど、だからと言って、わざわざお客様とお近づきになりたいとは思わないかな。こうして眺めているだけで十分――と考えていた、その時だった。

 店の自動ドアが開いて、反射的に私たちは「いらっしゃいませ」と声を合わせてそちらを見遣った。
 すると、淡いピンクのブラウスに、花柄のふんわりした膝丈スカートを履いた可愛らしい女性が、服装の雰囲気とは真逆のぴりりとした空気をまとって、レジ前をつかつかと通過していく。先に席をお取りください、と案内しているくらいなので、それ自体は全く問題ない……のだけれど。
 その女性は、明らかに異様な雰囲気を醸し出していた。思わず、その姿を目で追う。
 彼女は一目散に、私たちが遠目でちらちら見ていた貴島さんのもとまで行くと、すっと隣に腰掛けた。向かいではなく、隣である。貴島さんは一人掛けのソファに座っていたので、その肘置きにどっかりと腰掛けたのだ。そして貴島さんの腕に手を絡ませた。

 咄嗟に、周辺のお客様に視線を走らせる。落ち着いた雰囲気を売りにしている店内で、大げさにいちゃつくのはやめていただきたい。商談をしているお客様もいらっしゃるのだ。
 華奢な女性ではあるけれど、肘掛けに座ってソファを壊されても困る。

 「げ」という表情を浮かべている木下さんに目で合図して、私は二人のいる席に向かった。
 こう言う時、声をかけるのはあんまり得意じゃない。「お客様、どうされましたか?」は変だし、「ご注文はお決まりでしょうか?」と聞くしかないだろう。ボードに立てかけてあったメニューを取り、あと数歩というところまで近づいたときだった。

 女性に、しなだれ掛かられるようにしていた貴島さんが、すっと立ち上がった。
彼女は、バランスを崩して、つい先ほどまで貴島さんが座っていたソファの座面に、ぼすんと落ちるように尻餅をついていた。
 貴島さんが見たことないくらい目を細めて、女性を見下ろしている。
 
「申し訳ないが貴女の告白には応えられないし、こうやって話しかけられるのも迷惑だ」
 
 冷たい声に、しんと店内が静まり返った。流れているBGMが一瞬止まったのか、と思うくらいの衝撃だった。

 けれどやってきた女性は、形の良い眉を顰めたかと思うと、

 「そんなに照れなくてもいいじゃないですか、せっかく社外で話しかけたのに」

 と口を尖らせた。

「社内では話せないって言われたから、わざわざ追いかけてきたんですよお。だからいいじゃないですか、ねっ。付き合ってくださいってばあ」

 不自然に作ったような声だった。語尾を伸ばし、貴島さんの腕に再度縋りつこうとする女性の行動に、疑問が浮かぶ。

 え、ちょっと待って、どう言う状況?

 頭の中が混乱する。女性と貴島さん、二人の会話はまったく成立していないように思われた。
 考え込んでいると、目の前で、女性の爪に塗られた強いピンクがちらちら揺れた。

「ね、貴島課長」

 甘ったるい声でそう言ったかと思うと、女性は貴島さんの腕を抱え込んだ。ぎゅっと自分の胸を押し当てるような行動に、目を見張る。

 ただ次の瞬間、貴島さんは素早く腕を引き抜くと、重く、深いため息を吐いた。その反応で確信した。
 困っている。

「貴島さん、どうしたんですか?」

 そう認識した瞬間、話しかけていた。
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