触れる指先 偽りの恋
エピローグ
「春樹さん、ごめんなさい……! 急な残業になってしまって!」
会社を飛び出すと同時に電話をかけた。
ほとんど待たせずに出てくれた春樹さんは、いつもと変わらない穏やかな口調で「大丈夫だよ」と言ってくれる。
『それより慌てて走らないようにね。今日は間に合わないから』
「本当にごめんなさい……!」
『仕事なんだから仕方ないって』
「でもお蕎麦食べたかったー」
『夏穂が気に入ってくれたのは嬉しいけど、蕎麦屋はいつでも行けるでしょ』
春樹さんはそう言って、電話口で笑いを噛み殺している。
確かに、この話の流れだとまるで私の食い意地が張っているみたいに聞こえる。
でも、違うのだ。
「だって春樹さんの出張前に行きたかったんですよ。日本食が恋しくなるかもしれないし」
そう言うと、電話の向こうではとうとう笑いを堪えられなくなったのか、小さく噴き出す気配を感じた。
『大丈夫。今回の出張、一週間だからね? すぐ帰ってくるよ』
「そうなんですけど……」
それより、会えない寂しさの方が強いから、一週間でもすごく長く感じてしまう。
『それより夏穂、階段はゆっくり降りること』
まるで見透かしたかのような言葉に、思わず立ち止まる。
はあい、と小さく返事をして、改札を通り抜け、ホームへの階段へと向かう。
電車が来るまであと五分ほど。確かに焦ったって仕方ない。
そう言い聞かせて階段を降りていくと――。
ホームでは耳にスマホを当てたままの春樹さんが、こちらを見上げて軽く手を振っていた。
「え、なんで……」
「俺も残業してきた。で、そろそろかなあって切り上げたところ」
「嘘……」
どんな魔法を使ったら、こんなに時間を合わせられるんだろう。
そう考えて、春樹さんの大きな手を握った。少しだけ冷たい。
電車をいったい何本見送ったのだろう。
じーっと見上げると、春樹さんは観念したように苦笑いを浮かべた。
「十五分前くらいに会社出たばかりだから、本当にそんなに待ってないよ」
「もう、言ってくれればよかったのに」
「だって夏穂、約束破ることになって悪いから帰るって言い出しそうだったから。家に帰らせる前に、捕獲」
指を絡めるように繋ぎ直される。
「もう捕まえたから、帰らないでね」
「でも……春樹さん、出張の準備もあるって言ってませんでした?」
そう訊ねると、「あるけど……」と珍しく言い淀む。
どうしたんだろう、と思って見つめていると、ふっと空気が緩んだ。
繋いだ方と反対の手が、ごそごそとスーツのポケットを漁っている。
やがてそこから出てきたのは、銀色の、鍵。
「はい、これ」
「え……?」
「合鍵。夏穂の分」
「え、え……?」
「いつでも好きなときに来てほしいから。今日は夏穂が残業だったけど、俺が遅くなることもあるだろうし」
「いいんですか……?」
片方の手は繋いだまま、空いた手を差し出すと、ころん、と冷たい感触が転がってくる。
「もちろん。むしろ、持っていて欲しい」
「ありがとうございます……」
じんわりと、喜びが胸のなかに込み上げてくる。
「今日みたいに遅くなったら泊まってくれていいから。俺が出張でいないときでも遠慮しないで」
「そんな、さすがに……」
「帰り危ないから、むしろ泊まって」
ね? と言われて、おずおずと頷く。
すると春樹さんは安堵したように、細く息を吐いた。
「ありがとう。受け取ってくれて」
「え……?」
「同じ家に帰りたいって思うのは俺だけ?」
そう訊ねられて、慌てて首を横に振る。
そんな日が来たらいいな、といつだって思っている。
「じゃあ良かった」
その話は改めて、と耳許で囁かれた。唇が触れそうな距離に、顔が火照る。
「もう、駅なのに」
わざと頬を膨らませて言うと、春樹さんは悪戯っぽく笑う。
電車の到着を予告するアナウンスが流れ始め、どちらからともなく繋いだ手に力を込めた。
Fin.
会社を飛び出すと同時に電話をかけた。
ほとんど待たせずに出てくれた春樹さんは、いつもと変わらない穏やかな口調で「大丈夫だよ」と言ってくれる。
『それより慌てて走らないようにね。今日は間に合わないから』
「本当にごめんなさい……!」
『仕事なんだから仕方ないって』
「でもお蕎麦食べたかったー」
『夏穂が気に入ってくれたのは嬉しいけど、蕎麦屋はいつでも行けるでしょ』
春樹さんはそう言って、電話口で笑いを噛み殺している。
確かに、この話の流れだとまるで私の食い意地が張っているみたいに聞こえる。
でも、違うのだ。
「だって春樹さんの出張前に行きたかったんですよ。日本食が恋しくなるかもしれないし」
そう言うと、電話の向こうではとうとう笑いを堪えられなくなったのか、小さく噴き出す気配を感じた。
『大丈夫。今回の出張、一週間だからね? すぐ帰ってくるよ』
「そうなんですけど……」
それより、会えない寂しさの方が強いから、一週間でもすごく長く感じてしまう。
『それより夏穂、階段はゆっくり降りること』
まるで見透かしたかのような言葉に、思わず立ち止まる。
はあい、と小さく返事をして、改札を通り抜け、ホームへの階段へと向かう。
電車が来るまであと五分ほど。確かに焦ったって仕方ない。
そう言い聞かせて階段を降りていくと――。
ホームでは耳にスマホを当てたままの春樹さんが、こちらを見上げて軽く手を振っていた。
「え、なんで……」
「俺も残業してきた。で、そろそろかなあって切り上げたところ」
「嘘……」
どんな魔法を使ったら、こんなに時間を合わせられるんだろう。
そう考えて、春樹さんの大きな手を握った。少しだけ冷たい。
電車をいったい何本見送ったのだろう。
じーっと見上げると、春樹さんは観念したように苦笑いを浮かべた。
「十五分前くらいに会社出たばかりだから、本当にそんなに待ってないよ」
「もう、言ってくれればよかったのに」
「だって夏穂、約束破ることになって悪いから帰るって言い出しそうだったから。家に帰らせる前に、捕獲」
指を絡めるように繋ぎ直される。
「もう捕まえたから、帰らないでね」
「でも……春樹さん、出張の準備もあるって言ってませんでした?」
そう訊ねると、「あるけど……」と珍しく言い淀む。
どうしたんだろう、と思って見つめていると、ふっと空気が緩んだ。
繋いだ方と反対の手が、ごそごそとスーツのポケットを漁っている。
やがてそこから出てきたのは、銀色の、鍵。
「はい、これ」
「え……?」
「合鍵。夏穂の分」
「え、え……?」
「いつでも好きなときに来てほしいから。今日は夏穂が残業だったけど、俺が遅くなることもあるだろうし」
「いいんですか……?」
片方の手は繋いだまま、空いた手を差し出すと、ころん、と冷たい感触が転がってくる。
「もちろん。むしろ、持っていて欲しい」
「ありがとうございます……」
じんわりと、喜びが胸のなかに込み上げてくる。
「今日みたいに遅くなったら泊まってくれていいから。俺が出張でいないときでも遠慮しないで」
「そんな、さすがに……」
「帰り危ないから、むしろ泊まって」
ね? と言われて、おずおずと頷く。
すると春樹さんは安堵したように、細く息を吐いた。
「ありがとう。受け取ってくれて」
「え……?」
「同じ家に帰りたいって思うのは俺だけ?」
そう訊ねられて、慌てて首を横に振る。
そんな日が来たらいいな、といつだって思っている。
「じゃあ良かった」
その話は改めて、と耳許で囁かれた。唇が触れそうな距離に、顔が火照る。
「もう、駅なのに」
わざと頬を膨らませて言うと、春樹さんは悪戯っぽく笑う。
電車の到着を予告するアナウンスが流れ始め、どちらからともなく繋いだ手に力を込めた。
Fin.


