君の隣が、いちばん遠い


「……こんばんは」


花岡さん。

週に一、二度やってくる大学院生の常連さんだ。

今日も黒ぶちの眼鏡をかけ、落ち着いたネイビーのコートに身を包んでいる。


「こんばんは。……これと、これで」


差し出されたのは、クラフト紙のノートと、万年筆のインク。

渋い選択だった。


レジを打ちながら、わたしはふと、最近の自分を思い出していた。

紗英ちゃんとのカフェ。

一ノ瀬くんとの夕焼けのベンチを———


「……最近、雰囲気変わったね」


花岡さんの言葉に、わたしは驚いて顔を上げた。


「……え?」

「表情。前より、やわらかくなった。……いいと思う」


それだけを静かに言って、彼は代金を受け取り、コーヒー片手に出て行った。


その後ろ姿を見つめながら、そっと手のひらを胸に当てた。


気づけば、自分は変わっていた。

誰かと笑う時間が、心地よくなっていた。


何かを無理に演じるのではなく、自分のままでいられるような。

そんな日々を、大切にしたいと思えるようになってきた。


遊ぶ理由なんて、きっといらない。

ただ、誰かと一緒にいることを、少しずつ楽しめるようになってきた。

その小さな変化を、今のわたしははそっと抱きしめていた。





< 117 / 393 >

この作品をシェア

pagetop