氷壁エリートの夜の顔
 ……だけど実際、今の状態で「恋を満喫」なんて、どうすればいいのだろう。
 考える間もなく、仕事は次から次へとやってくる。

「桜さん、富山の出張レポートですが、ブランドストーリーの初稿に落とし込んでも大丈夫ですか?」

「はい、こちらにまとめてあります。ターゲット層ごとの感度と、ヒアリングの要点も入れました」

 結城さんとは、そんなやりとりを終日繰り返している。このどこに、恋の気配が入り込む余地があるというのか。

 いや、もともと結城さんは、業務時間内に私的なやり取りなんてしないタイプだ。
 だから、きっと退勤後に連絡がくるものだと、自分に言い聞かせる。

 けれど、スマホの通知はずっと沈黙を保っていた。

 これが仕事なら──私は迷わず自分から連絡を入れていただろう。
 小さなズレも見落とさず、軌道修正して、最善の形に持っていく。それが、私のパートナーシップの定義だった。

 だけど、これは仕事じゃない。

 嫌な予感がした。
 もし──結城さんが、あの夜のことを「なかったこと」にしたいと思っていたとしたら?

「……その可能性、か」

 スマホを見つめながら、小さくつぶやく。
 喉の奥に、拭えないざらつきが残っていた。
< 134 / 206 >

この作品をシェア

pagetop