氷壁エリートの夜の顔
 私は慌ててバッグの中を探ったが、折りたたみ傘は見当たらなかった。
 どうしようかと迷っていたそのとき、誰かが近づいて行った。

 チャコールグレーのステンカラーコートに身を包んだ、すらりとした長身の男性──結城さんだ。

 彼は、ご夫妻に声をかけながら、自分の折りたたみ傘を差し出した。

 結城さんは、普段古美多に行くときのラフな装いとは違い、今日はきちんとスーツを着て、髪も整えている。だから最初、ご夫婦は彼に気づかなかったようだった。
 だけどご主人が「あっ」と声を上げた瞬間、ふたりの顔に笑みが広がる。

 うれしそうに傘を受け取る原田さんたちに、結城さんは目元で笑って、小さく片手を上げた。それから、そのまま雨の中へと歩いていく。

 その背中が、妙に静かで、美しかった。
 まるで、モノクロームの映画のワンシーン。いまにもエンドロールが流れてきそうな感じ……。

──スーツ姿で笑うの、初めて見たな。
 私は、静かに遠ざかっていくその背中を、雨越しにしばらく見つめていた。
< 31 / 206 >

この作品をシェア

pagetop