氷壁エリートの夜の顔
 むしろ、古美多という場所で、彼が唯一、距離を取っている相手がいるとすれば──それは、たぶん私だ。
 だって、同じ職場の人間に無防備なオフな姿を見られるのは、きっと抵抗があるはずだから。

 ……だから私は、ちゃんとわきまえておこう。

 そう自分に言い聞かせながら、私は洗い上がったグラスを拭いた。

* * *

 その日の午後。社外での打ち合わせを終えて、私は会社へ戻る道を歩いていた。

 空にはどんよりとした雲が広がり、ぽつぽつと雨粒が落ち始める。道ゆく人たちは足早になり、傘の花が次々と咲いていく。

 私はふと立ち止まり、空を見上げた。

──大丈夫。あの雲の感じなら、雷にはならなさそう。

 とはいえ、このまま本降りになりそうな空気だ。会社まではあと少し。走った方がいいかもしれない。
 そう考えていたそのとき、視界の端に見慣れた人影が映った。

「……あれ、原田さん?」

 古美多の常連の、原田さん夫妻。70代くらいの仲睦まじいご夫婦で、いつもそれぞれの好物を半分こしながら、にこやかにのんびり食事をしている方たちだ。
 そのふたりが今、ビニール袋を両手に下げながら、ビルの軒先で雨宿りをしていた。
< 30 / 206 >

この作品をシェア

pagetop