氷壁エリートの夜の顔
「桜さんにしかデータは直せない。だったら、桜さんはそっちに集中してください。山本さんも……僕が接客したら、案外喜んでくれるかもしれません」

 涙が込み上げてくるのがわかった。こういうとき、私は泣かないはずだったのに。

 結城さんに目を見られないよう、私は深く頭を下げた。その拍子に落ちた雫に、彼が気づいていませんように──そう願いながら。

「……ありがとうございます」

 私が顔を上げる前に、彼は何も言わず、静かにラウンジを後にした。

 胸の奥に、ぽつんと何かが灯った気がした。
 あんなふうにまっすぐに差し出された優しさに触れて──まだ恋じゃないなんて、ごまかせるはずがない。

 私はたしかに……結城さんに惹かれている。

 でも、今の私には恋を育てる余裕なんてない。この気持ちが、どこかへ行き着く未来なんて、想像できない。

 それでも──彼が胸に残していった、静かな熱だけは、ずっと消えなかった。
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