氷壁エリートの夜の顔
 社内では、親しみを込めて「口説きの八木」と呼ばれているが、それすら本人公認のニックネームだというから、もう突っ込む気にもならない。

「桜さん、いつもお弁当だよね。なんだか家庭的でいいな。……おっと、危うく惚れるところだった」

「危うくで済むなら、私のお弁当もまだまだですね。精進します」

 私は笑って、軽く受け流すように冗談を返した。
 彼は、相手の肩の力を抜かせるのがうまい人で、私のオフィス用の笑顔も、彼の前ではすぐに剝がれてしまう。

 八木さんは私のお弁当をのぞき込み、にんまりと笑う。

「その煮物、いい照りしてるね。僕ね、煮物マイスターを目指して、経験値を積んでいる真っ最中なんだ。ひと口くれたら、お礼に今夜ストウブ料理をご馳走するよ。駅前のビストロ、チキンと旬野菜のストウブ煮が絶品でね」

 私はちらりと彼を見た。そういえば、京花さんが最近ストウブ鍋を衝動買いして、「何か試作したいね」と言っていたっけ。

「あ、今、ちょっと興味を持ったでしょ?」

「気のせいです」

──ストウブ料理。正直、気になる。けれど、八木さんとふたりきりのディナーは……さすがに無理だ。
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