氷壁エリートの夜の顔
「いやいやいや、本場どころか、うどんを入れようとしていたの忘れたの?」

「かぼちゃを買い忘れてた時点で気づいたよ。姉ちゃんは、わざと剣を忘れて戦いに挑むタイプなんだって」

「姉ちゃんはそんな謎美学は持っていません! それに、結城さんにも都合ってものが……」

 そのとき、結城さんの静かな声が割って入った。

「ちょうど用事が終わったところです。もし、ご迷惑でなかったら……行ってもいいですか?」

 思わず結城さんを見た。少しだけ目を逸らしながらも、口元は柔らかくほどけている。
──この笑顔は、仕事中の彼じゃない。古美多で「うまっ」とつぶやいた、あのときの顔だ。

「……もちろんです。この前のお礼もしたいと思っていたので」

 そう言ってから、ちょっと慌てて付け加える。

「いや、私の手料理がお礼になるなんて……おこがましいにも程がありますけどね」

 結城さんは、またしても仕事モードとプライベートモードの間で揺れながら、少し笑った。

「ほうとうも、好きです」

 なんで「も」なのだろうと考えて、すぐに思い出した。前に彼が、「ストウブ料理が好き」と言ったのを受けての言葉だ。
 あんな何気ない会話、覚えてくれてたんだ……。

「持ちますよ」と言って、結城さんは寿命を迎えたエコバッグを軽々と引き取ってくれた。

 後ろでは、柚月と律希が顔を見合わせて、にんまりと笑う。
 私は胸の奥がそわそわして、「こっちです」と家のほうを指差した。

 隣を歩く結城さんの気配が、思ったよりも近くて──鼓動が少しだけ騒がしくなったことに気づかないふりをして、私は歩き出した。

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