氷壁エリートの夜の顔
 落ち着いた声に、どこか柔らかな甘さを含んでいた。
 彼女は私には一瞥もくれず、まっすぐ結城さんへと歩み寄る。そして、彼の腕のあたりに軽く手を添え、顔を近づけて言った。

「ちょうどよかった。今度の件で、補足したいことがあるの。5分だけ、いいかしら?」

 ふたりのやりとりはどこか親しげで、まるで業務ではなく、プライベートな会話のようにも見えた。
 彼女だけが、彼に自然に触れられる──そんな空気がその場を支配していて、私は出しかけた資料を引っ込めた。

「絢音、ちょっと待って、今、桜さんと話しているから」

──絢音、って呼んだ?

 その瞬間、美玲の言葉がよみがえる。

『アメリカ行く前、社内に彼女がいたらしいよ。広報の美女って噂』

 ……まさか、この人?

「ごめん、桜さん。どの資料ですか?」

 私はオフィス用の笑顔を浮かべて、首を横に振った。

「急ぎではないので、付箋を貼ってデスクに置いておきます。失礼します」

 そう言って、逃げるようにラウンジを後にした。

──ここは外資系。下の名前で呼び合うことくらい、珍しくない。
 理屈ではわかっている。わかっているけれど……。

 香坂さんの口からこぼれる「颯真」には、私の知らない温度と、微かな甘さを含んでいるように思えた。
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