若頭と小鳥

14 若頭と小鳥の真夜中の書斎

 さやかにとって義兄は自分を包んでくれる大きな存在で、その距離は別邸に移ってからもっと近くなった。
 昼間は仕事と大学にそれぞれ分かれているものの、夜に義兄が帰宅してからはずっと一緒に過ごしていることが多い。
 その夜のさやかも義兄の部屋で話すうち、うたた寝をしていたらしい。気づけば義兄のベッドに運ばれていて、さやかはそこで眠ってしまった。
 けれどふと目を覚ましてしまったのは、ざわつく夢を見たからだった。暗闇から手が伸びて、縛るようにさやかを後ろから抱きしめた夢。
「お兄ちゃん……!」
 姿の見えない影に怯えて、さやかは夢の中でも義兄に助けを求めた。
 いつもなら義兄が側にいて、さっちゃん、大丈夫だよと包んでくれる。
 でもその日は違っていて、手を伸ばした先に義兄はいなかった。広すぎるベッドの中、さやかは一人だった。
 さやかは甘え心を持て余して自己嫌悪に沈んだ。義兄の腕の中のぬくもりが恋しくて、しょんぼりとうつむいた。
 そんなとき、義兄の書斎の方から灯りが漏れているのに気付いた。さやかは灯りに引き寄せられるように、そっとベッドを抜け出した。
 壁掛け時計はちょうど十二時を指していた。辺りは義兄と夜長話をしているのと同じ部屋のはずなのに、どこか別世界のように見えた。
 書斎をノックしなかったのは、来客がいたからだった。さやかはその客人の姿を見て、きゅっと身が縮む。
 客人の低い、闇色の声がさやかの耳にも届く。
「兄さんの襲撃の首謀者だが」
 まだ二十代の若さなのに、感情を消し去った表情と目の下の色濃い隈が、彼に平常の世界の住民ではない空気をまとわせる。さやかも子どもの頃から彼を知っているのに、彼が笑ったところを見たことがなかった。
 二人は書斎で、膝が触れるようなところにお互い座っていた。義兄は客人に、指先で合図を送る。
「メイザ」
 義兄は優しくも冷たくもない声色で彼を呼んで、少し彼の方に体を傾けた。
 メイザ……銘座(めいざ)はうなずいて、義兄の耳に口を寄せる。
 息が触れるような距離に近づくと、表情が違うだけで、二人の顔立ちはとてもよく似ていた。それもそのはずで……義兄と銘座は血のつながった兄弟なのだった。
 銘座は義兄の耳に裏切者の名前をささやくと、義兄は体を離して思案顔になった。
 銘座はどうするとも問わずに義兄の答えを待った。二人は兄弟である以上に、若頭と腹心の関係だからだった。
 義兄はふいに艶やかな微笑を浮かべて、他愛ないことを語るように言った。
「潮時かな。罰を受けてもらおう」
「……では」
 銘座が眼光鋭くその命令を言葉にしようとしたとき、義兄は軽く手を払ってその言葉を遮った。
 義兄はとろけるような甘い声音で、戸口の陰で息を殺していたさやかに声をかける。
「さっちゃん、眠れない? 一人にしてごめんね」
 義兄の声に、銘座の視線がさやかに向けられる。さやかはびくりとして踵を返そうとしたが、足が震えて思うように動かなかった。
 さやかは子どもの頃から、格別大柄で常ならぬ空気をまとう銘座を恐れていた。
 ただ銘座はさやかを脅かした、いじめっ子たちとは違う。銘座は賢い子どもで、義兄がさやかを溺愛しているのもよく理解していた。銘座は悪意のある言葉を投げつけるどころか、めったにさやかに近づこうともしなかった。
 ……でもいつかの真夜中、ちょうど今のように世界がまったく違って見える頃、銘座は突然さやかを後ろから抱きしめたことがある。
 そのときの銘座は、さやかが泣いても、離してほしいと頼んでも、物言わぬまま縛るようにさやかを腕の中に封じ込めた。
 今もさやかの中に残るその恐怖。でもいじめっ子たちと違って、銘座は兄弟だ。さやかは誰にも、義兄にさえその夜のことは打ち明けられなかった。
 義兄はさやかが怯えているのを見て取って、銘座にさらりと言葉をかける。
「メイザ、話はここまでだ。続きは明日」
「……ああ」
「おいで、さっちゃん。抱いていってあげる」
 今の銘座は義兄に絶対服従で、決してさやかに危害を加えることはない。
 でもさやかは義兄が歩み寄るまでその場から一歩も動くことができなかった。義兄はさやかをいつものように抱き上げると、優しく笑いかけて言う。
「さっちゃん、メイザは怖くないよ。兄弟なんだから」
 うん、うん、わかってる……。さやかは義兄にそう答えながら、やはり震えは止まらなかった。
 あの日の銘座が何を言いたかったのか、さやかは理解できない。異界から伸びた鎖のようだった腕を思い出して、さやかは今も怯えている。
「……私を包んでくれるのは、お兄ちゃんだけでいい」
 深い夜更けの書斎で、さやかは泣くような声でつぶやいた。
「そうだよ。……もちろん、そうだ」
 義兄が銘座の去った扉を、一瞬だけ不穏な目で見たのを、気づくことはなかった。
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