若頭と小鳥

33 若頭と小鳥の外泊

 義兄は車を呼ぶと、すぐにさやかを呉葉の事務所に連れて行った。
「母さんは俺だけで応対するよ。遅くなるだろうから今日は呉葉のところで泊まって。明日には迎えに行くよ」 
「お義母さんは……何の話でいらしたの?」
 さやかの頭の中によぎったのは、銘座の言葉だった。さやかの不安そうな声に、義兄は優しく答える。
「たぶん仕事の話だよ。さっちゃんは心配しなくて大丈夫。ディナーを中断させちゃってごめんね。後で埋め合わせするからね?」
「私はいいの。お兄ちゃんが……」
 ……もしお兄ちゃんが別の人と結婚したとしても、私は……。さやかはもうちょっとでそう言いかけたが、言葉は出なかった。義兄はさやかをぎゅっと抱きしめると、大丈夫というように背をさすってくれた。
「……俺とさっちゃんの暮らしは誰にも譲らない。さっちゃんは俺のだもの」
 体を離して義兄はそう言うと、呉葉にさやかを託して事務所を去っていった。
 呉葉は青ざめたさやかを見やって、そっと声をかける。
「さやか、ゲストルームを自由に使っていいですよ。事務所は夜になると危険な客も来ますから」
 呉葉はさやかにカードキーを渡して、ビルの上層階にある自分のマンションの部屋番号を告げた。さやかは事務所で義兄を待っていたかったが、呉葉に迷惑はかけられない。仕方なく言われた通り上層階に向かって、マンションの中に入った。
 呉葉のマンションには、さやかは初めて来た。そこはベージュを基調とした壁紙で、呉葉らしく機能的で質素な家具が並んでいた。
 入口から入ってすぐ右に折れたところで、さやかはプレートに書かれた英文字を読む。
「ゲストルーム……」
 ここには同居人はいないが、呉葉の人柄で友人を泊めることは多いらしく、いつもゲストルームを使えるようにハウスキーパーを入れて部屋を整えていると聞いた。
 たださやかはゲストルームに入ったものの、そわそわと窓の外を見たりして落ち着かなかった。すぐ隣にシャワー室もあったが、とても勝手に使おうとは思わなかった。
 さやかは、一人で外泊は初めてだった。義兄と一緒に旅行に行くことはあったが、そういうときはいつも義兄と一緒の部屋だったし、手配からチェックアウトまで義兄が甲斐甲斐しくさやかの世話をしてくれた。
――俺、一日だってさっちゃんと離れたくないのだもの。
 義兄は、物心ついた頃からさやかを置いて旅行に行くことはなかった。よほど遠方に出張に行くのでない限り、どんなに遅くなってもさやかのいる屋敷に帰ってきてくれた。
 ……お兄ちゃんと少し離れただけで、寂しいなんて思ったらだめ。
「起きて朝まで待ってたら、かえって心配かけちゃう……」
 さやかは無理やり窓から目を背けて、どうにか寝支度を始めた。
 ベッドサイドに用意された大きすぎるルームウェアに袖を通して、そろそろとベッドに横になる。馴染みがないベッドの感触にとても眠れそうになくても、休む努力はしようと思った。
 ベッドの中で、今頃義兄と義母はどんな話をしているのだろうと、ぐるぐる考えていた。
 ……義兄の結婚の話だとしたら、自分はどんな顔で義兄からその話を聞くのだろう? そうなったら屋敷から出て行くのは当然自分なのに、お兄ちゃんと一緒がいいと縋ってしまわないだろうか。
 結婚したら、兄妹といつまでも一緒に暮らすわけにはいかないのに……。
 眠ったつもりはなかった。けれどどうにも義兄のことばかり考えてしまう思考の渦の中で、さやかの意識は外界から閉ざされていたらしい。
 ふいに誰かがシャワー室に入る音が聞こえた。さやかははっとして、反射的にシーツをぎゅっとつかむ。
「くれは……?」
 そうであってほしいと思ったけれど、呉葉だったらさやかに一声かけてくれるだろう。
「……だれ?」
 さやかは怯えて足が竦んで、動けなかった。ゲストルームは二つあった。もう一つのゲストルームに滞在している人だとしたら、さやかに気づかないでいてほしいと思った。
 けれどシャワー室の中の人影はまもなくシャワーを終えて、さやかのいるゲストルームの方に出てくる。
「さやか?」
 濡れた髪にバスタオルをひっかけて、鍛え抜かれた体躯も露わにシャワー室から出てきたのは銘座だった。
 ……どうして、よりによってめいざと密室で二人きり。さやかは泣きそうな思いになる。
 銘座は涙目で縮こまっているさやかの姿を目に映すと、獰猛な獣が獲物をみつけたように、くっと喉の奥で笑った。
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