イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─

○お坊っちゃま律、騙される

 その日、律は珍しく早く帰宅した。

 玄関の扉を開けるなり、満足げな顔で紙袋を掲げる。

「陽菜、見てくれ。いい買い物をしたんだ!」

 どこか得意げな声音だった。

 陽菜はエプロン姿のまま、首をかしげた。

「……え? なに買ったの?」

「これだ」

 紙袋の中から出てきたのは、パッケージがやけに立派な、折り畳みマットレス。「快眠」だの「姿勢矯正」だの、金色の文字が踊っている。

「駅前で『健康フェア』をやっていてな。期間限定だって言うから、思い切って買ってみた。陽菜、最近デスクワークで肩がこるって言ってただろ? これなら安眠できるぞ」

 そう言って微笑む律の顔は、まるでサンタクロースのように優しかった。

 ……が、陽菜は反射的に尋ねた。

「い、いくらだったの?」

「たったの一万円! お得だろう?」

 律は胸を張る。

「……一万円!?!?」

 陽菜の声が一瞬で跳ね上がる。

「律、それ、高すぎるよ。どう見ても……」

 彼女は袋をひっくり返し、レシートを探し始めた。律はちょっと焦ったように、ポケットをごそごそ探す。

「え、そんなにおかしいか? だって店の人、『社長さんなら分かりますよ、この価値!』って言ってたし……」

「そうやって言われたの!? まんまと信じちゃったの!? これ、どう見てもフツーのマットレスだよ……」

 陽菜がぴたりと動きを止め、顔を上げた。その目はキラリと光る。まるで戦場へ向かう戦士のように。

「……レシート、貸して」

「え、あ、はい……」

 律はどきまぎしながら差し出す。

 陽菜は素早く目を走らせた。

「ほら! 電話番号も住所も載ってない。しかも『長期保証料』って何よ、これ! 完全に怪しい! 返品しよう」

「そ、そこまでしなくてもいいんじゃないか……?」

 律が弱々しく言う。だが陽菜は、凛と顔を上げた。

「律。1円に笑う者は1円に泣く。1万円なら、なおさらだよ」

 その声音は冷静で、それでいて炎のように強かった。

 律は思わず息を呑んだ。

(……陽菜、かっこいい)

 次の瞬間、陽菜は鞄をつかみ、颯爽と立ち上がる。「行ってくる」とだけ言い残し、玄関へ向かった。

 ヒールの音が軽やかに響く。

「ま、待って、陽菜! 一緒に行く!」

 律は、慌てて後を追った。

 こうして、社長とその妻による――駅前ぼったくり討伐作戦が、静かに始まったのだった。





 駅前のロータリーは、夕暮れの光に包まれていた。

 フェアと書かれた派手な横断幕、軽快なBGM、そして、呼び込みの声。

 そこには「あの店」が、まだ堂々と営業していた。

「ここだね、律」

 陽菜の声は静かだが、目には鋭い光が宿っている。

 律はその横顔を見つめながら、心の中で小さくつぶやいた。

 (……やっぱり、陽菜は強い)

 店の奥から、あの愛想のいい中年の店主が顔を出す。

「いらっしゃ──」と口を開いた瞬間、陽菜が一歩前へ出た。

「夫がこちらでマットレスを購入しました。ですが、この価格設定、明らかに相場の三倍です」

 店主の顔がひきつる。

「え、えぇ……? あ、あの、こちらは限定モデルでして……」

「限定? じゃあ証明書を見せてください」

「えっ」

「それに、領収書に住所も電話番号も書かれていません。どうしてですか? 『長期保証』があるのに不親切ですよね」

 淡々と、しかし一言一言が鋭い。

 店主が口ごもるたび、陽菜の視線がスッと刺さる。

 背筋の伸びた姿。どこか、弁護士のような気迫すら漂っていた。

「返品いたしますので、返金をお願いします」

 その声は低く、しかし絶対的だった。

 店主は額に汗を浮かべ、「ひ、ひぃぃ……」と声を漏らした。

 結局、店はしぶしぶ返金に応じた。

 律の手に、封筒が渡される。

 

 彼は思わず陽菜の方を見た。

「陽菜……すごいよ」

 陽菜は肩をすくめて笑った。

「そんなことないよ。ただの庶民の知恵」

 帰り道、夕風がふたりの髪を揺らす。

 律は袋を見つめ、そしてぽつりと言った。

「……俺、恥ずかしいな。人の言葉を信じて、何も考えずに買って」

「そんなことないよ。律は優しいんだもん。人を信じることは悪いことじゃない。……それに、私のために買ってくれたんでしょ?」

 陽菜が微笑む。

 その横顔が、夕陽に染まってきらめいた。

(……俺は、この人に一生勝てない)

 律はそう思った。
 彼女の勇敢さ、聡明さ、まっすぐな正義感──どれも、自分にはないものだった。

「なぁ、陽菜」

「なに?」

「ほんとに……かっこいい。惚れ直した」

 陽菜はきょとんとした後、照れくさそうに笑った。

「やめてよ、そういうの。大したことしてないよ」

 律は笑いながら、ぎゅっと陽菜の手を取った。

「もう、何を買うときも陽菜のチェックを通すことにする」

「それはやりすぎ!」

「いや。俺は、絶対また騙される。陽菜、俺を守ってくれ」

「そんなキリッとした顔でお願いされても!」

 ふたりの笑い声が、駅前に響く。



 封筒の中には、きちんと戻ってきた一万円。それを見て、陽菜はほっと息をつき、律もつられて微笑んだ。

「……よかった。ほんとに、戻ってきて」

「うん。でもそれ以上に、陽菜がいてくれてよかった」

 一万円を取り戻したことも嬉しい。

 それ以上に、こうして隣に笑い合える今が、何よりの宝物だ。

 ふたりでいると、ずっと強くなれる。そんな確信を持てる、あたたかい夜だった。
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