イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─

○手紙と風邪と、愛しすぎる人

 朝の光が柔らかく差し込むリビング。

 ポストから取り出した一通の封筒を、陽菜が手にしていた。

 淡いクリーム色の紙に、きちんとした字で書かれた差出人──Corven Paris 支社。

「……水野さん、だね」

 そう呟くと、律は椅子から立ち上がり、彼女の手から封筒を受け取った。

 封を切る指先が、いつもより少し慎重だった。


 便箋を開くと、そこには水野の几帳面な筆跡が並んでいた。

 どの文字もまっすぐで、誠実さがにじみ出ている。


 > 葉山社長へ

 > おかげさまで、順調です。

 > このような機会をくださったこと、心から感謝しています。

 > 僕、必ず力をつけて帰ってきますから。

 > 待っていてください。

 > 水野 大輔


 読み終えたあと、律はしばらく無言だった。

 陽菜はそんな彼の横顔を、穏やかに見つめる。


「水野さん、頑張ってるね。……なんか、嬉しいな」

 ふっと笑みがこぼれる。



 律は目を細め、唇を結んだ。

「……あいつは、やっぱりすごい。真面目で、努力家で、結果を出す。──だからこそ、応えたい」


 机の上に便箋をそっと置き、深く息を吸い込む。その瞳には、いつもの冷静な光とともに、静かな情熱が宿っていた。



「……俺も、負けていられないな」


 その夜から、律の働き方は一変した。

 オフィスでは誰よりも早く資料を仕上げ、帰宅後もノートPCを開いてはキーボードを叩く。

 画面に反射する光が、夜更けまで律の横顔を照らし続けていた。


 陽菜はソファで毛布を抱きしめながら、ため息をついた。

「律、もう寝た方がいいよ。明日も早いでしょ?」

「大丈夫だ」

「またそれ言ってる……」

 けれど、律の「大丈夫」はどこか危うかった。



 深夜。

 リビングの空気が冷たくなり、コーヒーはとっくに冷めている。

 デスクの上には資料の山。

 律の瞳は赤く、指先は震えていた。

 ──それでも止まらなかった。

 彼は、水野からの手紙を一度だけ見つめた。

 そこに書かれた「待っていてください」という言葉が、胸の奥でくすぶる。


「……水野、お前に恥じないように……俺もやるさ」

 そう呟いたその声は、かすかに掠れていた。



 そして翌朝──。

 ベッドの上で、律はうっすらと目を開ける。

 視界が滲み、額がじんわり熱い。

 「……まだ、働ける……」

 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 その瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。タオルと氷枕を抱えた陽菜が、そこに立っていた。

「もう、無理するからだよ! お願い、寝てて!」

 ベッドの上で、律は苦しそうに額を押さえている。頬が赤く、息は少し荒い。

「……少し熱があるだけだ。まだ、働ける……」

「だめ! 私の言うこと聞いて」

 陽菜はタオルを水にひたし、そっと律の額に置いた。

 ひやりとした感触に、律は思わず息をつく。

 「……気持ちいい……」

 その声に、陽菜はほっと笑みを浮かべた。

「ほらね、最初からこうしてればよかったのに」




 律はまぶたを閉じ、ぽつりとつぶやく。

「俺、こんなふうに看病されるの、初めてだ」

「えっ……?」

 陽菜は思わず手を止めた。


「父も母も仕事が忙しくて、よく家を空けてた。熱を出しても、いつも一人で寝てたよ。……シッターが、看病してくれてた」

 律の声は、どこか遠い記憶の中に沈んでいた。


 陽菜の胸の奥が、じんと熱くなる。
──あのジェイコブ・タワーの豪奢な部屋の中で、律はずっと孤独だったんだ。


 陽菜はそっと律の手を握る。

「これからは、ずっと私がいるからね」


 律のまつげが小さく震えた。

 けれど、返事はなかった。

「……寝ちゃった?」

 陽菜は小さく笑い、彼の髪を指先で梳いた。

「おやすみ。早くよくなりますように」

 その言葉を残して、ドアを静かに閉める。

 ──が。
 ドアが閉まった瞬間、律の目がぱちりと開いた。

「……危なかった」

 布団の中で、頭を抱える。

「陽菜が愛しすぎてキスしたくなった……危うく風邪を移すところだった……!」

 ベッドの上でもんどりをうちながら、律は真っ赤な顔で叫んだ。

「陽菜は天使か! 俺はもう天国にいるのか!?」

 熱はみるみるうちに上がっていく。そのうち、意識がもうろうとして、夢と現の境目が曖昧になっていった。

 そのとき、ドアがカチャリと開いた。

 「律、寝てないの!?」



 「陽菜~♡」

 熱で理性を飛ばした律は、起き上がるなり陽菜を抱き寄せた。

 唇が触れる。

 「きゃーっ!!」



 * * *


 翌朝。

 布団の中で、今度は陽菜がぐったりしていた。

 律はすっかり回復し、申し訳なさそうにおかゆを運んでくる。

 「ごめん、陽菜。本当に……」

 「もう……律のばか」

 怒る声にも、どこか笑いが混じっていた。

 テーブルの上には、水野の手紙がまだ置かれている。

 便箋の文字が、春の光に照らされて柔らかく輝いていた。

 律はその文字を見つめ、そっと呟く。

「……よし。俺も、ちゃんと頑張らないとな」



 陽菜は布団の中で、安らかに目を閉じる。

 (でも、もう無理はしないでね)

 その想いが伝わったのか、律はそっと彼女の髪を撫でた。

 窓の外では、春風がやさしくカーテンを揺らしていた。

──遠いパリの空の下で、水野も同じ風を感じているのかもしれない。

 小さな風邪がくれたのは確かな絆と、もう一度思い出した、あたたかさだった。
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