記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-
第十二話 「その距離に、ひとひらの優しさを ― ソルティ・カラメル」

 からん——。

 静かな鈴の音が、店内に控えめな余韻を残す。

 いつになく賑わっているカフェ・ルミナス。その奥のカウンター席では、アケミが他愛のない会話を交わしていた。アケミの隣には長い髪をきっちり結い上げた女性、円香(まどか)が座っている。白のカーディガンに膝丈のワンピース、ブランド物のトートバッグを椅子にかけ、どこか不機嫌そうにカップを見つめていた。

「円香、ここ雰囲気いいでしょ? 最近のお気に入りなんだ」

「ふーん……まあまあかな」

 円香はぶっきらぼうに答えつつも、ちらりと店内を見渡す。アケミが隣で小さく笑うのを横目で見ながら、そっとカップを持ち上げた。

 カウンターではAI店主のソラが忙しそうにしながらも、一人ひとりの客へ丁寧に対応している。その所作は滑らかで、まるで風景に溶け込むようだった。

 そして再び扉が開き、店内に新たな来訪者が現れる。

 落ち着いたベージュのコートに身を包んだ女性が一人。そしてその傍らには、やわらかなクリーム色の盲導犬——ビビが静かに寄り添っていた。

「いらっしゃいませ。……おかえりなさい、詩織(しおり)さん」

 ソラの声に、その女性——詩織は小さく微笑む。

「こんにちは。今日は随分賑やかですね。お席、空いてますか?」

「もちろんです。ご案内しますね」

 詩織とビビがゆっくりと歩みを進める中、ざわめきが一瞬だけ広がる。

「わぁ、かわいい」

「あの犬、すごいお利口さん……」

「盲導犬かな?」

 若い女性客が手を伸ばそうとした瞬間、ソラが穏やかに制した。

「申し訳ありません。この子は今お仕事中なんです。どうか、そっと見守ってあげてください」

 若い女性は「ごめんなさい」と小さく謝り、手を引っ込める。
 そのやりとりを見ていた円香が、椅子を引いて立ち上がった。

「ちょっと、犬なんて店に入れていいわけ? 衛生的にも最悪じゃない」

 店内の空気が一瞬で凍りついた。
 詩織が足を止め、顔を伏せる。

「ちょっと、円香……」

 アケミが眉をひそめる。はっとしたようにして、円香は俯き目を伏せた。

 ソラがゆっくりと円香の元へ歩み寄る。

「申し訳ありません、円香さま。ビビさんは盲導犬として十分な訓練を受けたパートナーです。円香さまのお気持ちもきちんと受け止めたうえで、お席もできる限り配慮させていただきます。どうか、この場だけでもお許しいただけないでしょうか?」

 円香は唇を噛みながら視線を逸らした。

「……好きにして」

 その言葉にソラはそっと微笑み、詩織とビビを店の奥の静かな席へと案内した。

 アケミが小声でつぶやく。

「あんた、そういえば昔から犬苦手だったっけ? でもあの子は盲導犬なのに、それでも駄目なの?」

「……仕方ないでしょ。盲導犬でも、ほんとに怖いんだから」

 円香の声はわずかに震えていた。

「私、小さい頃に野良犬に襲われたことがあるの。公園でひとりで遊んでたら急に吠えながら走ってきて……。転んで、足を擦りむいて、泣きながら必死に逃げたのよ。何度も噛まれて、血がたくさん出て、ようやく通りがかったおじさんが追い払ってくれたけど、病院で検査もしたわ。……それ以来、犬を見るだけで体が強ばるの!」

 円香の声は次第に大きくなり、周囲の客もちらりとこちらを見た。アケミが慌てて声をひそめた。

「ちょ、円香、声、声……。落ち着いて」

 円香がはっとして口をつぐむ。そして小さな声で「……ごめんなさい」と呟いた。奥の席では、詩織が顔を上げてこちらを向いていた。

「……あの、聞こえてしまって、ごめんなさい。でも、お気持ちお察しします。……そのとき、本当に怖かったんですね」

 円香はぎこちなく頷く。

「ちょっと違うかもだけど、私も目が見えなくなり始めた頃は、毎日が怖かったです。目が見えないことで何もできなくなるんじゃないかって。……でも、ビビがいてくれたから、私はまた歩けるようになった。この子は本当におとなしくて、優しい子です。でも……ビビの存在があなたの傷に触れてしまうのであれば、今日はこれで失礼しますね」

「あ、いえ……大丈夫です。いてください」

 円香はどこか慌てるように言い、それからぽつりとつけ加えた。

「……すみません」

 ソラがそっと言葉を紡いだ。

「円香さま。もし、今でもその記憶が胸の奥で疼くのなら……どうか、ご自分を責めないでください。それは、誰にとっても深い傷になるものですから」

 その言葉に、円香は目を伏せたまま小さく答えた。

「……そうかもしれない、けど」

< 38 / 44 >

この作品をシェア

pagetop