消える僕が残した花びら
春の風が、桜の花びらを舞わせていた。
「君が、僕を忘れてもいいように——」
そう言ったのは、まだ雪が残る二月の終わりだった。
***
高校三年の春。
杏(あん)は誰よりも目立たない女子だった。教室の片隅で読書をして、誰とも深く関わらない。けれど、唯一話しかけてくれたのが、同じクラスの朝倉颯真(あさくら・そうま)だった。
「また本読んでるの? 俺のことも少しは見てよ」
冗談めかして言う彼に、杏ははじめ戸惑った。けれど、彼はいつも優しくて、時々からかって、でも一番杏を気にかけてくれた。
「杏ってさ、桜みたいだね。咲いてるのに、誰もちゃんと見てない」
そんな彼の言葉に、杏の心は初めて春を知った。
***
桜が満開になる頃、颯真は突然いなくなった。
「転校したらしいよ。急にだったらしい」
理由は誰も知らなかった。杏だけが、最後の日に彼と交わした言葉を知っていた。
「俺、もうすぐいなくなるんだ。でも——君の中に、俺の花びらを残していくよ」
それが何を意味するのか、杏には分からなかった。ただ、彼が手渡してくれた薄紅色の紙の花びらが、今も彼女の部屋に残っていた。
その紙には、たった一言だけ。
「好きでした」
***
あれから二年。杏は大学生になった。桜の季節になるたびに、彼を思い出した。
そして、ふと立ち寄った古本屋で、信じられないものを見つける。
——「短編集:風が消える場所で」著者:朝倉颯真
ページをめくる。そこには、まるで自分との記憶をなぞるような物語が綴られていた。
読み終えると、巻末にこうあった。
僕の記憶が薄れていっても、君が持つ花びらが、僕を思い出させてくれるように。
君の春が、ちゃんと咲きますように。
杏はそっと涙を拭いた。
彼は本当にいなくなってしまったのだろうか。
それとも、彼の残した物語の中で、今も咲いているのだろうか。
***
桜の木の下で、杏はそっとポケットから紙の花びらを取り出す。
「——まだ、ここにいるよね」
花びらが、春風に乗って舞い上がった。
そしてその一瞬、杏の瞳には、彼の笑顔が映った気がした。
彼がいなくなってから、二度目の春が終わろうとしていた。
杏は静かに、その古びた病院の前に立っていた。
風が吹くたびに、ポケットの中の花びらがかさりと音を立てる。
彼の本を読んだ日から、杏は調べ始めた。出版社に連絡を取り、著者の過去を辿った。
そして、ひとつの答えにたどり着いた。
朝倉颯真は、一年半前、春に亡くなっていた。
病名は、希少な進行性の心疾患。高校三年の初めにはもう医師から「長くはない」と告げられていたという。
それでも彼は、杏にだけは悲しみを見せず、最後まで「生きている日々」を全力で輝かせていた。
彼女の前では笑って、からかって、本を読んで、恋をして。
そして、そっと消えていった。
杏は病院の裏庭にある、小さな桜の木の下に案内された。
「彼がよくここに来てました」と看護師が言った。
その根元には、小さな石碑があった。
朝倉颯真
ここに風の物語を眠らせる
——君の春が咲きますように
涙は不思議と出なかった。ただ、胸の奥で何かが静かに燃えていた。
杏はポケットから、あの紙の花びらを取り出した。
本物の桜の花びらと並べて、そっと石碑のそばに置く。
「私は、ちゃんと生きるね。ちゃんと、咲くよ」
その瞬間、不思議なことが起きた。
風が吹き、花びらがふわりと舞い上がった。
そして、杏の耳に聞こえたような気がした。
——「それでいい」
振り返っても、誰もいなかった。
でも杏は、知っていた。
彼はもういない。けれど、彼の残した言葉と、花びらと、あたたかい春の風が、
これからもずっと、彼女を包んでいく。
それが、朝倉颯真の「消え方」だった。
「君が、僕を忘れてもいいように——」
そう言ったのは、まだ雪が残る二月の終わりだった。
***
高校三年の春。
杏(あん)は誰よりも目立たない女子だった。教室の片隅で読書をして、誰とも深く関わらない。けれど、唯一話しかけてくれたのが、同じクラスの朝倉颯真(あさくら・そうま)だった。
「また本読んでるの? 俺のことも少しは見てよ」
冗談めかして言う彼に、杏ははじめ戸惑った。けれど、彼はいつも優しくて、時々からかって、でも一番杏を気にかけてくれた。
「杏ってさ、桜みたいだね。咲いてるのに、誰もちゃんと見てない」
そんな彼の言葉に、杏の心は初めて春を知った。
***
桜が満開になる頃、颯真は突然いなくなった。
「転校したらしいよ。急にだったらしい」
理由は誰も知らなかった。杏だけが、最後の日に彼と交わした言葉を知っていた。
「俺、もうすぐいなくなるんだ。でも——君の中に、俺の花びらを残していくよ」
それが何を意味するのか、杏には分からなかった。ただ、彼が手渡してくれた薄紅色の紙の花びらが、今も彼女の部屋に残っていた。
その紙には、たった一言だけ。
「好きでした」
***
あれから二年。杏は大学生になった。桜の季節になるたびに、彼を思い出した。
そして、ふと立ち寄った古本屋で、信じられないものを見つける。
——「短編集:風が消える場所で」著者:朝倉颯真
ページをめくる。そこには、まるで自分との記憶をなぞるような物語が綴られていた。
読み終えると、巻末にこうあった。
僕の記憶が薄れていっても、君が持つ花びらが、僕を思い出させてくれるように。
君の春が、ちゃんと咲きますように。
杏はそっと涙を拭いた。
彼は本当にいなくなってしまったのだろうか。
それとも、彼の残した物語の中で、今も咲いているのだろうか。
***
桜の木の下で、杏はそっとポケットから紙の花びらを取り出す。
「——まだ、ここにいるよね」
花びらが、春風に乗って舞い上がった。
そしてその一瞬、杏の瞳には、彼の笑顔が映った気がした。
彼がいなくなってから、二度目の春が終わろうとしていた。
杏は静かに、その古びた病院の前に立っていた。
風が吹くたびに、ポケットの中の花びらがかさりと音を立てる。
彼の本を読んだ日から、杏は調べ始めた。出版社に連絡を取り、著者の過去を辿った。
そして、ひとつの答えにたどり着いた。
朝倉颯真は、一年半前、春に亡くなっていた。
病名は、希少な進行性の心疾患。高校三年の初めにはもう医師から「長くはない」と告げられていたという。
それでも彼は、杏にだけは悲しみを見せず、最後まで「生きている日々」を全力で輝かせていた。
彼女の前では笑って、からかって、本を読んで、恋をして。
そして、そっと消えていった。
杏は病院の裏庭にある、小さな桜の木の下に案内された。
「彼がよくここに来てました」と看護師が言った。
その根元には、小さな石碑があった。
朝倉颯真
ここに風の物語を眠らせる
——君の春が咲きますように
涙は不思議と出なかった。ただ、胸の奥で何かが静かに燃えていた。
杏はポケットから、あの紙の花びらを取り出した。
本物の桜の花びらと並べて、そっと石碑のそばに置く。
「私は、ちゃんと生きるね。ちゃんと、咲くよ」
その瞬間、不思議なことが起きた。
風が吹き、花びらがふわりと舞い上がった。
そして、杏の耳に聞こえたような気がした。
——「それでいい」
振り返っても、誰もいなかった。
でも杏は、知っていた。
彼はもういない。けれど、彼の残した言葉と、花びらと、あたたかい春の風が、
これからもずっと、彼女を包んでいく。
それが、朝倉颯真の「消え方」だった。
