現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

キスの予習

「……じゃあ、このシーン、やってみましょうか」

撮影前のスタジオに、まだ誰もいない午後。

飛鳥と遥真は、クライマックスのキスシーンの脚本を詰めるため、ふたりきりでの演技確認をすることになっていた。

脚本家として、演者の呼吸を理解するために——そう言い聞かせてはいたけれど。

(キスシーンなんて、演出の域を超えてる……)

飛鳥の胸は、密かに高鳴っていた。

「……でも、直接触れるのは、ちょっと抵抗がありますよね」

遥真が困ったように笑いながら、ふと提案する。

「じゃあ、こうしましょうか。僕の指を挟んで、互いの唇の間に置いて……それで“間”を見てみましょう」

「指……?」

「ええ、唇が触れないように。でも、距離と温度は、ちゃんと伝わると思います」

飛鳥は迷ったが、頷いた。

緊張に包まれながら、ふたりは対面で立つ。

台詞の最後の一行。

“……もう、いい?”

遥真の指が、そっと飛鳥の唇に伸びる。

そして、彼の人差し指が飛鳥の下唇に軽く触れ、そのまま自分の唇に運ぶように配置された。

唇と唇の代わりに指先を挟む。

ふたりの距離は、数センチもなかった。

(近い……)

目の前にある遥真の瞳は、真剣そのものだった。

まるで台詞の一言一言に、心を込めて触れようとしてくる。

飛鳥の呼吸が、浅くなる。

そのまま動きを止めようとした時、遥真がそっと、もう片方の手で飛鳥の頬に触れた。

その仕草が、あまりにも優しくて、リアルで。

飛鳥は、瞬間、心の奥が音を立てて揺れるのを感じた。

とっさに、彼の手から離れた。

「……ごめんなさいっ」

「飛鳥さん?」

「これは、演技……演技だから……」

小さく、何度もそう繰り返す。

けれど、その唇に残る感触。

遥真の指の熱。

その温度は、彼女の中で確実に“本物”として刻まれていた。

(これは……演技?)

それとも——。

動揺のまま目を伏せた飛鳥に、遥真は一歩だけ、そっと近づいた。

「……飛鳥さん」

名を呼ばれるだけで、心がまた波打つ。

そして、真剣なまなざしで、ただ彼女を見つめた。

何も言わないのに、その瞳がすべてを語っていた。

飛鳥の心の奥が、静かに音を立てて開いていく。

戸惑いと、ときめきと、怖さと、嬉しさと——全部が混ざって、涙になりそうだった。

「……遥真くん」

声に出して呼んでしまった名前。

その響きが、自分でも思っていた以上に自然で、甘くて、切なかった。

遥真は、返事をせずに、ただ一歩踏み出した。

彼と彼女の距離は、演技ではなく、心の間合いだった。

「……もう一回、さっきのシーン、やってみませんか?」

飛鳥は、自分でも信じられないほど穏やかな声でそう言った。

遥真の唇が、かすかに揺れて、優しく笑った。

「はい。僕も、やり直したいと思ってました」

「今度は私の人差し指を、あなたと私の唇の間に挟むね」

遥真はうなずいた。

飛鳥は一歩近づき、彼の顔の正面に自分の指先を差し出す。互いの唇の距離は、わずかに数センチ。

「目をそらさないで」

その声に導かれるように、遥真はじっと彼女を見た。

静寂の中で、互いの呼吸だけがわずかに揺れる。指先越しに感じる体温、唇の動き、視線の熱。

指というわずかな境界線を挟んだまま、ふたりの世界は急速に狭くなっていく。

——台本には書かれていない、体温の演技。

ふたりのあいだにあったのは、もはや“台本”ではなかった。

それは、確かにひとつの“感情”だった。

演技のふりをして近づいた距離が、いつしか本物のぬくもりに変わっていた。

目をそらさずに台詞を口にする遥真。思わず視線を逸らしてしまいそうになる飛鳥。

でも、それでも離れたくなかった。

脚本の中で書いていた言葉を今、素顔の自分が欲しがっている。

その夜、飛鳥は脚本を開いたまま、そっとペンを取り、そこに初めてこう書き加えた。

——“好き”は、言葉じゃない。重なる鼓動と、視線と、震える呼吸のなかにある。

書き終えたページを見つめながら、飛鳥はゆっくりと微笑んだ。

(……ようやく、書けた気がする)

それは、誰かのセリフではなく——自分自身の、再生のはじまりだった。
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