現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

鷹野の暗躍

制作会議室。

明るい室内には、居心地の悪い沈黙が広がっていた。

会議テーブルの中央には、ドラマ制作陣と関係スタッフ。

そして、その中心で、有力スポンサーである鷹野が椅子の背にもたれ、鋭い目を光らせていた。

「ここで、一つ。キャスティングの件で、調整をお願いしたい」

無表情のまま発せられたその言葉が、場の空気を一変させた。

「主演俳優について、再考する必要があるかと」

一瞬、ざわめきが起こる。

飛鳥はその場の隅で、凍りついたように黙って座っていた。

誰も彼女を見ようとしない。

鷹野の言葉が、絶対であることを全員が理解していた。

「脚本家との過度な密着が、作品に不必要なノイズを生んでいます。加えて、昨今の報道姿勢を考えると、スキャンダルリスクが高い」

その言葉は、まるで飛鳥だけに向けて放たれた刃のようだった。

言葉が、喉で凍りつく。

そのときだった。

「僕、交代します」

静かに、けれど確かな声でそう言ったのは、遥真だった。

飛鳥の視線が、咄嗟に彼を捉える。

「……遥真くん……」

「僕の存在がリスクなら、僕が降りるのが一番です」

その言葉に、誰も何も言えなかった。

プロデューサーも、監督も、演出家も。

ただ、飛鳥だけが、心臓を掴まれたように胸を痛めていた。

(私のせいで……)

そう思った瞬間、何かが崩れた。

これまで感情を封じ込めてきた心が、きしむように揺れはじめた。

(あの夜、脚本に思いを込めた。そばにいた。名前を呼ばれて、心が震えた)

そしていま、自分の選んだ想いが、彼の仕事を奪おうとしている。

それを見ているだけの自分に、耐えられなかった。

(違う、私は……)

思考が悲鳴のように駆け巡る。

(彼を、失いたくない)

その瞬間、飛鳥はゆっくりと立ち上がった。

沈黙を切り裂くように、会議室の空気が動いた。

視線が集まる。

脚本家としてではなく、ひとりの人間として——ようやく、自分の声を出すときが来たのだと、飛鳥は悟った。

(このまま黙っていたら、何も守れない)

喉が震え、言葉が舌先で迷う。

けれど、それでも。

彼女の中にある“たったひとつの本音”だけは、もう封じておけなかった。

「それは……間違ってます」

低く、けれどはっきりとした声が、会議室に響いた。

鷹野が、ゆっくりと視線を飛鳥へと向ける。

あの静謐な圧を持つ眼差しが、彼女の輪郭を射抜くように見据えた。

「……どういう意味かな」

静かで、だが一切の情を感じさせない声だった。

飛鳥は唇を噛み、だが目を逸らさずに続けた。

「演者と脚本家が近すぎることを“ノイズ”と断じるなら……この作品は、最初から成立しません」

言い切った自分の声に、自分でも驚くほどの熱が宿っていた。

プロデューサーが慌てて間に入ろうと身じろぐが、飛鳥はそれを制するように手を上げた。

「確かに、私は未熟でした。距離感の取り方も、関係性の見せ方も……プロとして、足りない部分があったと思います」

一拍、息を整え、飛鳥は続ける。

「でも——それでも、彼の芝居があってこそ、この物語は“生きた”んです」

遥真が、はっとしたように飛鳥を見る。

彼女は視線を下げずに、まっすぐに鷹野を見た。

「私が書いた脚本は、遥真くんが演じることで、初めて“誰かの物語”になったんです。だから、キャスティングの交代は……物語を壊す行為です」

会議室に重く張り詰めた空気の中で、その言葉だけが鮮やかに響いた。

鷹野の眉が、わずかに動く。

「あなたは、スポンサーの意向に反旗を翻すつもりか」

脅しともとれる一言。

しかし飛鳥は怯まなかった。瞳に宿った光が、かつてないほど強かった。

「脚本家として、物語を守りたいと思うのは当然です。それが“反旗”に映るのなら……どうか、ご自由に」

遥真が、小さく何かを言いかけて止めた。

彼女の覚悟に、誰も軽々しく口を挟めなかった。

プロデューサーが絞り出すように言葉を探す。

「鷹野さん、少しだけ、時間をいただけませんか。脚本とキャストの今後の方針について、あらためて社内で協議させてください」

鷹野は、ほんの一瞬だけ沈黙し、椅子の背にもたれて腕を組む。

そして――

「……三日だ」

「三日以内に、納得のいく回答を用意してもらおう。こちらも、限界まで譲歩している」

その一言を残し、彼は立ち上がった。

鋭く、重く、だがそれ以上の追及はせずに。

鷹野が去ると、ようやく誰かが大きく息を吐いた。

会議室に残ったスタッフの顔には、それぞれ異なる色が浮かんでいた。

安堵、困惑、戸惑い、そして——敬意。

飛鳥は立ったまま、力が抜けるようにその場に崩れ落ちそうになった。

だが、隣に遥真がそっと立ち、彼女の背を支えた。

「……ありがとう」

彼の声が、震えていた。

「俺、嬉しかった。飛鳥さんが、俺のために……」

「違う……」

飛鳥は、小さくかぶりを振った。

「あなたのためなんかじゃない。これは、私自身のため。私が……ようやく、本気で、物語と向き合えたから」

その言葉に、遥真は何も返さなかった。

ただ、そっとその背に手を添えたまま——少しだけ、目を閉じた。

そして、二人は同時に知るのだった。

この瞬間こそが、本当の意味での“物語の始まり”なのだと。
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