日々のすべてに咲いている
「ねえ先生、カレンダーにシールを貼ってもいい?」
画面にずらりと並んだレポートの文字列から意識が剥がれた。瞬き一つ、担当研究員である彼女はうん? とやわらかく答えながら振り返る。レモンイエローの双眸を初夏の日差しのようにきらめかせたアルトがこちらを見ている。指し示す先には壁にかけられた無骨なほどシンプルなカレンダー。今年の始まりに彼女がかけたものだ。もっぱら日にちを確認するのみに使われている。
「いいよ。お好きにどうぞ」
「やったあ! ありがと、先生っ」
はずむように礼を言うと、アルトはカレンダーを迷いなくめくり出した。少ししてぴたりと手が止まり、白い指先が目当ての一日をとんとたたく。なんとはなしに見守っていた彼女は、おや、と首を傾げた。見間違いでなければそれは己の誕生日だ。
アルトは片手でカレンダーを押さえたまま、もう片方の手で台紙からシールを剥がし取ろうと苦戦している。彼女はゆっくりと立ち上がり、そばへ寄っていくと黙ってカレンダーを押さえた。
「ありがとう先生」
「いーえ。なにするの?」
「シールで先生の誕生日をかわいくするんだ〜」
「かわいくされちゃうのか……」
「あ、その前に誕生日って書かなきゃ」
きゅ、きゅ、と色付きのペンで『先生の誕生日!』と丁寧に書かれる。
そして、ただ四角く区切られただけの一日が、あっという間にアルトの手によって淡く鮮やかにかわいらしいシールの群れで彩られた。見事な有言実行だ。そこだけ突然、花束が置かれたようだった。「かわいいねえ」と感心して声を漏らせば、「かわいいでしょ〜」と満足げにレモンイエローがほほえむ。
「先生、めくってめくって!」
「はいはい仰せのままに、お兄さん。まだ貼るの?」
「うん。次は北斗の誕生日ね」
「はーい、じゃあ一月だ。一月、一月、の」
「十二日ー、あった。貼りまーす」
先ほどと同じように色付きのペンで、今度は『北斗の誕生日』と書かれて、やはり同じように淡く鮮やかにかわいらしい、しかし色合いの系統が違うシールの群れで彩られていく。仕上げとばかりに貼られたのは小さなくまのシールだ。おまけに、そこに眼鏡のシールが重ねて貼られるものだから、彼女は思わず笑ってしまった。とてもよく似ている。なにとは言わないが。
「よくこんなの見つけたねえ」
「似てるよね?」
「似てる似てる。そっくり」
「ほら見て先生、グラスチェーンまでついてるんだよ、これ」
「本当だ、細かいね。ますますそっくりだ……」
「ね〜」
顔を見合わせてくすくすと笑う。
「先生、めくって〜」
「はーあい。次は?」
「僕たちの誕生日!」
はーい、と軽く答えて、彼女はカレンダーをめくった。彼女の入社日の二週間後――それが今のアルトたちの誕生日、となっている。厳密に言うならば『アルト』が創られたその日こそが正しく誕生日なのだが、彼らはバックアップデータから起こされた存在だ。「ログが始まった日、つまり君に初めて会った日が誕生日ってことでいいんじゃない?」という小熊井北斗の一言で、そう決まったのだった。
――そういえば、あの子の誕生日はいつだろう。
「ね、先生が『お誕生日』って書いてくれない?」
「うん? うーん、いいよ。字がよれても怒らないでね」
彼女は手渡されたペンを握った。代わりに、今度はアルトがめくったカレンダーを押さえる。
できるだけ丁寧に、『アルトくんの誕生日』と書く。
カレンダーから身を離して出来栄えを確認すると、少しバランスが悪いように思えた。だが、「どう?」と窺ったアルトの顔がなぜだかとてもうれしそうだったので、まあいいかと彼女は一つうなずいた。
「もっと大きく書いたほうが良かったかな」
「どれくらい?」
「枠をはみ出るくらい」
「じゃあ来年のカレンダーにはそう書いて!」
「いいんだ。ふふ、いいよ、わかった。来年は『アルトくんたちの誕生日以外に大事な予定などありません』っていうくらい大きく書いてあげましょう」
「学会の予定が入っても?」
「それってアルトくんたちの誕生日より大事?」
あはは、とアルトが声を上げて笑う。
ぺたぺたと少しバランスの悪い字の周りを囲うように、かわいらしい四色のシールが貼られていく。最初は橙、黄色、赤、青のチューリップのシール。それからそれぞれの色合いが使われた他のシールが、各々同色のチューリップを起点として四隅に広がるように彩っていく。よく見れば彼らの好物をモチーフにしたシールもさりげなく散らされており、センスがあるなあと彼女は感心しきりだ。自身のバランスの悪い字ですらそういうフォントです、で通りそうなほど。
ぼんやりと眺めて、そうしてふと、赤いチューリップのエリアに貼られた絵筆とキャンバスのシールに目を吸い寄せられた。
「そろそろアルトくんが――」これでは目の前のアルトと被るな、とおよそ二時間ぶりn度目の気付きが脳裏でひらめき、彼女は便宜上の呼び名へ言い直した。「赤くんが帰ってくる頃かな」
紆余曲折を経て四人になった彼らが義体を得て半年ほどになる。前々から「世界を見たい」と言っていた赤色の彼は、満を持して旅へと出ていた。とはいえさすがにいきなり海外は時期尚早だと思ったので、彼女は、
「まってお願いアルトくんせめて最初は国内にしよう! 国内の旅である程度旅ってものの要領を掴んで基礎を叩き込んでから海外に行ったほうがいいと思う絶対そのほうがいいよ急に海外に行ってなにかあってもこっちはフォローできないんだよある程度の慣らしは必要だよ急に出てもなにかあったときのリカバリの仕方がわからなくて困るでしょうお願いお願いお願い私の心を助けると思ってまずは国内から始めようお願いだから」
と怒涛の泣き落としを恥も外聞もなく繰り出し、見事に彼の理解と了承と合わせてなぜか憐れみの眼差しを得たため、記念すべき彼の最初の旅は二泊三日の国内一人旅だ。ちなみにその後、様子を見ていたらしい青色の彼に「説得の仕方というものがあるだろう、先生……」と呆れられた。
今日はその三日目、赤の彼が帰ってくるはずの日である。
そうだね、と相槌を打ったアルトが、ディスプレイに表示された時計にちらりと視線を投げた。
「まだもうちょっとかかるんじゃないかなあ。夜になるかもって連絡来てなかったっけ?」
「ああ、そうだったかな……夜って何時から? 今からにならない?」
「なりませーん。……先生、さびしいの?」
腕が限界だったのでめくっていたカレンダーをそっと戻した。今月へと帰ってきたカレンダーは、同時に今までの無骨なほどシンプルな印象へと戻る。
彼女はうすらぼんやりと漂わせていた視線をアルトへ向けた。ぱちん、とレモネードのような双眸とぶつかる。彼はわずかに首を傾げて答えを待っていた。
思わず苦笑いが浮かんだ。
「そりゃあさびしいよ。こんなに離れたことないでしょう?」
「たった三日なのに」
「たった三日なのにねえ」
彼女は笑った。
されどその三日がいまだ恐ろしいのだとは言わない。
「あーあ、この調子じゃいつまで経ってもアルトくん離れできないかもしれないな。あなたたちがあまりにもかわいすぎるせいで」
「そうやってすぐ責任転嫁するんだから〜。でもそんなの、しなくていいと思うけどな……」
「本当? なでてもいい?」
「しょうがないなあ。特別だからね!」
かわいいウィンクが流星のように飛ばされた。そうやっていったい何人を手玉に取ってきたのだろう。
彼女は遠慮なく手を伸ばした。アルトの頬の横で揺れる、三つ編みにした横髪が崩れないように気をつけながら、ふわふわと跳ねる銀色を頭頂部から梳くようになでた。軽く見上げた先、えへへと笑う彼に、つられるように彼女も頬をゆるめる。
そこへしゅっとドアが開く音とともに、橙色のアルトが入ってきた。
「先生、あのさ! ……なにしてるんだ?」
言い表すなら『おひさまぴかぴか』。
そんなほがらかな笑顔が一拍、きょとん、としたものになる。
「なでてる」
「いやそれは見ればわかるけど」
「カレンダーにシール貼ってたんだ〜。ほら見て」
「へえ、……おーかわいい。こういうのうまいよなー。やっぱりセンスあるな」
黄色のアルトが橙の彼に向かってほら、と成果を見せる。橙の彼は素直に感心して、素直に褒め言葉を口にする。にこにこと黄色の彼がうれしそうに胸を張って、かわいいな、と彼女もにこにこ場を見守る。
「それにしてもたくさん集めたな、シール。カレンダーに貼るために買ったのか?」
「ううん、もともとは他のみんなに貼るために集めたものなんだけど」
よくわからない文が出てきた。
「他のみんなに貼るってなに?」
「えーっと、……先生、昔『ほめられた数だけシールを貼る』ってことをやったの覚えてる?」
「ああ、やったねえ」
アルトたちがまだほんの小さい頃の話だ。ほめられた数を数えたい、と言い出した彼のために、壁に貼り付けた台紙へ毎日ほめるごとにシールを貼ったものだ。いつの間にかやめてしまったが、実を言うとシールを貼りつけた台紙はいまだに彼女のデスクの引き出しの中に大事にしまわれている。
「少し前に、六分儀さん――知ってる? あの、秤さんと同じ第二開発部の人がね、『出勤したらログインボーナスがほしい』って言ってたから、そのシールのことを思い出して『じゃあこれから毎日出勤したら僕がシールを貼ってあげようか?』って聞いたんだ」
こんなふうに、と言って、アルトはシールを一枚台紙からはがすと彼女の手の甲へぺたりと貼った。ゆるいデフォルメがされたエリマキトカゲのシールだ。なんでエリマキトカゲ、と思いながら眺める彼女をよそに、アルトは橙の彼にも同じようにぺたりと貼る。ぬいぐるみのようなオカピだった。
「これなんの動物?」と橙の彼が首を傾げて、アルトが「オカピだよ」と答える。下のほうに小さくローマ字で名前書いてあるよ。あ、本当だ。
「そしたら思ってたより喜んでくれて、それから毎朝貼ってあげてるの。六分儀さん以外にもやってほしいっていう人がいたから、その人たちにも」
なるほどと彼女は思う。ログインボーナスというか、もはやただのファンサービスではなかろうか、とも思った。
「そういうことね。いま謎が二つ解けた」
「なに?」
「アルトくんが」十数分ぶりn+1度目の気付きと配慮。「――黄くんが毎朝南棟に行く理由。それから、シールをそんなにたくさん持ってる理由。単に趣味なだけかと思ってた」
「趣味なのもあるよ」とアルトが笑う。
「オカピとエリマキトカゲも?」と橙のアルトが横から差し込む。
「まあね〜。かわいいでしょ? 他にもあるよ。あ、こっちは僕が自分で集めたシールで、こっちのぶんはもらいもの」
「本当にいっぱいあるな〜! あ、これかわいいな、わんちゃ……犬! 犬のシール!」
「あ、それ僕も好き! お気に入りなんだ〜。かわいいよね」
――つまるところ、集めたそのシールたちをさらに活用できないかと考えて、たどり着いたのが『カレンダーの特定の日付を驚くほど鮮やかにすること』だったらしかった。
二人はわいわいと楽しげにシールを片っ端から見ている。それをなごやかな気持ちで眺めて、ふと彼女は思い出した。
「……うん? 橙くん、そういえばあなた、なにか用事があったんじゃないの」
あ、と橙の彼がはっとした様子で顔を上げるのと、ドアのしゅっという開閉音が響くのは同時だった。
「先生」
規則正しい、その長いコンパスにふさわしく、少し大股でゆったりとした足音とともに入ってきたのは青のアルトだ。理知的な切れ長の双眸が違わず彼女を見つけて、ふ、とゆるみ、それからすいと橙と黄の二人へと流れた。
「……先生を呼んでくるんじゃなかったのか?」
「すっかり抜けてた、悪い! ちょっと話が盛り上がっちゃってさ」
「ねえねえこれ見て」と、そこへマイペースに黄のアルトが言った。そのままカレンダーをめくって成果を見せる。どう、いいでしょ、と胸を張る彼に、青の彼も律儀にカレンダーを覗き込み、いいなと律儀に言う。
重ねて、
「こういったことは詳しくないが、とてもらしいと思う。色合いも調和が取れていて、シールがたくさん使われているにもかかわらず詰まっているような窮屈さも感じない。むしろ伸びやかさを感じさせるものになっていて好ましさを覚える」
とまで言った。
絵画の評論かな、と彼女は思った。絵画の評論かよ、とここに赤の彼がいたなら呆れた顔で口に出しただろう。代わりに、橙の彼が「審査員みたいだな」と感心したように言った。それはほめているのか、と青の彼が微妙そうな顔をする。ほめてるって、そんなにきちんと言葉にできるのはすごいことだろ。そうか、ありがとう。
「じゃあシールあげる、はい」
ぺたり。
その手の甲にすばやくシールが貼られた。もちもちとした防御力の低そうなアルマジロだった。
青の彼はそれをまじまじと見て、それから「おそろいおそろい」「攻撃力プラス1」と適当なことを言いながら突き出された彼女と橙の彼の手の甲にも同じようにシールが貼られているのを認めて、最後に黄の彼を見た。
「ログインボーナスだよ!」
「ログインボーナス……?」
困惑が深まった。
が、そんなことはお構いなしに、黄のアルトはこれまたマイペースに「あ、そういえば先生に用事があるんだっけ?」と話を戻す。はたと橙の彼がそうだったという顔をして、青の彼は一拍ののち「ああ」とうなずいた。さておかれた彼の疑問と戸惑いと困惑に思いを馳せながら、彼女は「はいはいなんでしょう」と寄せられた視線の中で首を傾げてみせる。
「ベガが買い物に行きたいそうだ。俺たちも誘われたんだが、できれば保護者として先生にも付き添ってほしいと言っている。このあと時間があればで構わないと言っていたがどうだろう、先生」
「あらま」
私でよければ、と返しながら、私でいいのか、とも少々意外に思う。
ベガは北斗の兄だ。かつては宇宙にいて、今はこの研究所でたいてい北斗の端末やモニターの中にいて、たまにこちらのモニターを訪ねてきたり流れで雑談したり、簡単な助言をくれることもある、ニュータイプAIの『先輩』。なんやかんやでいまだ義体が――なんならビジュアルデータも――ないため、研究所の外へ出る必要がある際には肉体のある者の助けが必要な身なのだが、彼はもっぱら北斗を頼っていたはずだ。
「こんな些細なことにアルトの大事な先生をお借りするわけにはいきませんからね」というのがベガの言い分で、「こんな些細なことに俺ならいくらでも使っていいと思ってるってこと?」というのが北斗の文句だった。ちなみに、「仲がいいなあ」というのが彼女の感想だ。
答えは青の彼がくれた。
「なんでも、北斗には秘密でドーナツを買いたいらしい。ここ数週間ずっと、学会の準備やら月末処理やらが重なって忙しかっただろう。ねぎらいの品にするんだそうだ」
「サプライズってこと?」
「そうだな」
秘密にするための目くらましと共犯がアルトたちで、そして今、彼女も『保護者』――つまりは責任者という形で巻き込まれようとしている、ということだった。
「北斗さんってドーナツが好きなの?」
「どうだろうな。ベガが言うには、小さい頃はドーナツを牛乳に浸して食べるのが好きだったそうだが……」
思いがけず上司の幼少期のかわいい好物エピソードを入手してしまった。
「それも一度に二つも食べるほど」
追撃が来た。
「今からだとあんまり想像つかないよな」と言ったのは、おそらく青の彼と一緒に話を聞いていたらしい橙の彼。
「北斗にもそんなかわいいときがあったんだ〜」と無邪気に言ったのは黄の彼。
「それはそれとして、今もそれが好きかは話が別じゃないか?」と言ったのは青の彼。
彼女はというと、「そうだね」と相槌を打ちながら、たった今聞いたことを可及的速やかに胸の内へ仕舞い込む努力をしていた。あまりにもほほえましすぎる。このままでは次に顔を合わせたときにうっかり思い出してうっかり意味もなくほほえんで、北斗を不審がらせてしまいそうだった。
「……ところで、いつ行くの? ベガさんはもう待ってる?」
「先生の手が空いたタイミングでと言っていた」
「そっか。じゃあちょっとやりかけのものを片してからにしようかな。すぐ行くから……そうだね、十分くらいで。アルトくんたちは先に行っててくれる?」
エントランスで待ち合わせようと言えば、青の彼と橙の彼は素直にうなずいた。黄の彼が「僕も一緒に行っていい?」と聞いて、「むしろ呼ぼうと思っていた」と返される。もともと会えたら誘っておいてくれと言われていたんだ。そうなんだ。そうそう、俺たちのぶんのドーナツも買ってくれるって。やったあ、じゃあドーナツパーティーだね。あいつのぶんも選んでおこうぜ、なにが好きだろうな。
「あ、先生、代金は全部ベガが出すって! 先生のぶんのドーナツも買ってくれるって言ってた!」
「あら。うーん、じゃあせっかくだし、お言葉に甘えちゃおうかな」
「『好きなドーナツを好きなだけ選んでください』だってさ。十個でも二十個でもいいらしいぞ」
「太っ腹だねえ。じゃあお店ごと買ってもらおうかな」
「端から端までどころじゃない……!」
あははと笑ってアルトたちは身を翻す。「待ってるなー」と橙の彼が手を振り、青の彼がほほえみ、「先生、早く来てね!」と明るく黄の彼が言って、ドアをくぐっていく。ログインボーナスってなんだ、と聞く声が聞こえて、あのね、と応える声、すぐにドアが閉まり、途切れる。
あっという間に静寂が落ちる。
「……」
彼女は唇の隙間から細く息を吐き出すと、デスクへと戻った。
放置されていたパソコンの画面上では、書きかけのレポートの続きを待つように規則正しく文字カーソルが点滅し続けている。目算進捗残り二割だ。そして経験上、目算よりも一割程度足したものが、おおよその最終的な完成物になる。今日も終わらないなあ、と思いながら、彼女は二つほどセンテンスを足して保存し、それからパソコンをロックした。
ついでにカップも片してしまおうと傍らに置いたままだったマグカップを持ち上げる。
ふと、スリープ状態のメインモニターが目についた。
「――……」
彼女が先ほどまで使用していた端末のものではない。
研究室の中では一番大きい、かつてアルトがいた、彼の部屋とも呼べる彼のためのモニターだ。
そして、今は誰もいない。
彼女はマグカップを持ったまま、暗い画面の前に移動した。ノングレアの画面はぼんやりとした影を反射するばかりだ。
なんとはなしにスリープを解除した。
一拍置いて、画面が見慣れた色合いの空間を映し出す。
誰もいないそこをぼんやりと眺める。
『――先生!』
かつてここにはアルトがいた。
そして、その前にも、アルトがいた。
よりにもよって入社日に迷って、迷い込んだ先で会った、彼女の転機そのものである、一番最初の彼だ。
――あなたの誕生日はいつだったんだろう。
そんなことすら知らないまま、こんなところまで来てしまった、と思う。
「……、」
先生、と記憶の中の声が笑う。
彼女は目を瞑る。
今でも思う。
本当は、当たり前のものを、当たり前のようにあげたかった。彼がくれたこの当たり前の続きを、彼にも享受してほしかった。手を引いてやりたかった。学ぶことだけが全てではないのだと教えてあげたかった。空も海も道も見せてあげたかった。北斗と自分だけが画面の外の存在ではないのだと、正しいわけではないのだと知ることができるようにしてあげたかった。反抗だってできるのだと。当たり前に祝って、シールを貼ったりして、好き嫌いを知って、好きは好きと、嫌いは嫌いだと言える、当たり前に眠って当たり前に目覚めて、そうしておはようと。それが幸福なのだと、わざわざ意識することもないような、日々を。
すべてが手遅れだ。
いつもいつも、彼女の知らないところで事態は進み、終わる。
終わった。
終わったのだ。
終わって、途切れるはずだったエンドロールのその先はつながれて、今こうして歩いている。
先生失格だ、とずっと思っている。
「……はあー……」
彼女は長く長く、深い、ため息をついた。途方に暮れたような色を帯びていた。
ぐりぐりと眉間を親指で揉んで、まぶたを持ち上げる。気を抜くとすぐにこうして深海に落っこちたようになってしまうからいけない。
彼は終わりの際に「許すよ」と言った。彼女もまた、彼に「許すよ」と言った。
そのことだけは忘れないようにしなければ。
すべて終わったことだ。
……アルト、と小さく胸の内で呟く。
声に出さないのは、返事がないことを思い知りたくないからだ。
彼女はマグカップを持ち上げた。誰もいないモニターへこつりと軽くやわらかく当てる。
ほほえんだ。
「――おめでとう」
誕生日はいつなのだろう。
そんなことも知らずにここまで来てしまった。
ならば、この続きの日々のいつでも、祝ってしまおう。
マグカップに残っていたコーヒーをぐっと飲み干す。
ふと、白衣のポケットから通知音が響いた。
端末を抜き出して確認する。『先生まだ〜? 忙しくなっちゃった?』とゆるやかな催促と心配の言葉が通知されている。
『今行くよ』と返信して、彼女は端末をまたポケットへ滑り込ませた。
マグカップを洗い、片付ける。
手の甲に貼られたままのシールに気づいて小さく笑う。
メインモニターの前へ戻る。
静かにまたスリープ状態へ戻して、彼女は研究室を出た。

