服毒
24.『出会い』(2)
気怠い蛍光灯の明かりが静かに瞬く。
執務室の空気は冷たくどこか重たかった。
端末のモニターに映し出されたのは、例の“彼女”の調査結果。
指紋照合は未登録。
顔認証もヒットせず、歯型、DNA、どれを調べても、結果はすべて「一致なし」。
住民基本台帳、医療記録、失踪者リスト……そのすべてが空振りだった。
年齢も国籍も不明。持ち物ゼロ、記録ゼロ。
まるでどこにも存在していなかった人間が、突然この世界に降ってきたようだった。
「……何ひとつ一致しない」
口に出してみても、あまりに現実味のない言葉に、額を押さえたくなる。
“身元不明者”ならまだ理解の範疇だ。しかし、ここまで何もない人間は、異常だった。
「事件性は、限りなく低いと見ていい。外傷も薬物反応もなし。記憶喪失か、精神的なショックか……」
捜査資料をパラパラとめくる上司の声は、どこか機械的で、温度を持たなかった。
机に挟まれた蛍光灯の白い明かりが、その表情をより無機質に照らし出す。
「例外措置として、医療機関での保護期間を設けるが、その後は――施設に移す手配を進める」
「……施設、ですか」
咄嗟に返した声は、我ながら少し強かったかもしれない。
でも、それを抑える気はなかった。
「彼女は、まだ目を覚ましたばかりで、状況もわからず混乱している。そんな状態で、見知らぬ場所に預けるなんて」
警察官としてではなく、彼女を助けた一人の人間としての非難。
「感情で動くな、レオ。これは処理の話だ」
冷静な言葉が返ってくる。だが、それが正論でり、理解しているからこそ胸の奥が軋む。
処理、か。
誰にも気づかれず、記録にも残らず、静かに流されていく人間。
あのときの俺も、そうだったじゃないか――。
十歳の頃の記憶が、唐突に胸を打った。
真夜中の廊下、無機質な白いシーツ、誰もいないベッドの列。
自分だけがぽつんと、世界に置き去りにされていた、あの冷たい空気。
「...俺が、預かれませんか」
レオは静かに口を開く。
上司がペンを止め、わずかに眉を上げた。
「正気か?」
レオは真っ直ぐ上司の眼を見る。
「戸籍も記憶もない彼女のそばには、誰かがいるべきです」
それはまるで、自分自身に言い聞かせるような口ぶりだった。
「...駄目だ。規則違反だ」
苦い顔で規則を語る上司。
「一時的でも構いません。...彼女が落ち着くまでだけでも」
重たく流れる空気、秒針の針の音が静かに響いていた。そして、暫くして耐えかねたように静かなため息をつく上司。普段淡々と職務をこなす部下の必死な言葉は、彼に僅かに刺さっていた。
「はぁ......確かにお前の主張にも一理ある、か」
レオの生い立ちが頭をよぎり、彼の気持ちを汲んだように口を開く。それは上司としてではなく、同じ人間として。
「レオ、彼女を見つけた時間は?」
その声は淡々としているようで、どこか彼を試すように訊ねていた。
「深夜0時過ぎ...」
最初はその問の意味を理解できなかったが、自分自身で時間を口にした時はっとする。
「0時35分頃でした」
確信を持ったその答えに、上司の口角が僅かに上がる。
「その日のお前の担当は、...0時までだったか」
書類をぱらぱらと捲りながら、彼の名前を見つけ出す。
「なら彼女は警察としてではなく、お前がボランティアで勝手に助けた人だ。そうだろ?」
公務時間外の出来事であれば、懲戒対象とはならない。そんな意図が込められたやり取りだった。
「この件はあくまで一般人であるお前の、通報によるものとして処理しよう。また、医療保護入院の代替措置として、一時的に家庭的な環境に置くのも妥当だろう」
限りなく黒に近いグレーゾーン。だが、調査結果の推定では成人も過ぎている。それならば当人の意思があれば不可能ではない。
「署長には俺から話しておく」
これから数日は、書類と手続きの処理で面倒になるだろうなと上司は溜息まじりに椅子を傾けた。
「最後までの責任と、当人の許可は自分で取ってこい」
そんな上司の言葉に、レオは深い感謝を込めて頭を下げると、手元の資料をすぐさま閉じ急いで部屋を出た。
───
病室のある病棟の廊下は静まり返っていた。
面会時間は過ぎていたが、許可は取ってある。
ドアの先、ただ一人で眠る女性が、目を覚ましたときに自分の顔が最初に映ればと――それだけを願って、レオは静かに扉の前に立った。
手をかける前に、一度だけ、深く息をつく。
これは仕事ではなく、自分で選んだ行動だ。
過去の自分と向き合うように、未来の誰かを引き受けるように――。
そして、病室のドアを静かに開ける。
差し込む午後の光が、白いシーツを淡く照らしていた。
彼女はまだ眠っている——そう思って足を踏み入れた、その瞬間。
まばたき一つ、長い睫毛がゆっくりと揺れて、黒い瞳がこちらを見上げていた。
「……起こしてしまいましたか?」
静かな声で問いながら、俺はドアを閉めて、ベッドの傍に歩み寄る。
シーツの上で、彼女はまるで現実に触れるように、瞬きだけでこちらの存在を確かめていた。
「レオさん」
静かに名前を呼ぶ声。だが、その声には夜の海で出会った時より、どこか安心の色が含まれているように感じられた。
「覚えていてくれたんですね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
記憶を失っているというのに、自分の名だけはこうして――何もないと言っていた彼女のなかの初めての存在になれた気がして。
彼女の目には、はっきりと自分が映っている。
レオはベッドの脇に膝をつくようにして腰を落とし、彼女と同じ目の高さになる。
その動作を見届けるように、ヨルは瞬きを一つ落として、視線を合わせてくる。
「具合、どうですか」
問いながらも、目の前にいる彼女が“まだ消えていない”ことに安堵していた。
小さな問いのひとつひとつが、確かめのようだった。
ここにいていいか。
話していいか。
触れてしまっても、壊れないか。
午後の光に照らされる彼女は、あの夜とはまるで違っていた。
海辺に倒れていた時の儚さではなく、静かに確かに「生きている」という温度を、今日のヨルは持っていた。
「悪く……ありません……」
その声には悲しみも焦りもない。ただ淡々と、事実だけを述べるような響きだった。
言葉が喉に詰まりかける。ヨルの“空っぽ”を、どう埋めてやればいいのか──そんな答えは当然まだ出せない。
「……俺の方で、いろいろ調べました。でも、身元につながるものは何一つ見つかりませんでした。名前も、戸籍も、どこにも記録が残っていません」
ヨルは静かに瞬きをし、それがまるで「わかっていた」とでも言うようだった。
レオは、その視線から逃げなかった。少し迷ってから、言葉を続ける。
ゆっくりと彼はポケットから書類を一枚、差し出す。だが、その手はどこかためらいを含んでいた。
「……これからしばらく、行く場所がないあなたには、“保護下”という形で国の施設に入ってもらう、というのが通常の流れなんですが……」
ここでレオは一拍置き、彼女を見つめた。
ヨルの黒い瞳は、まだ書類ではなく、彼を見ていた。
「でも、俺が、それに反対しました」
ヨルの瞳がわずかに動いた。それが驚きか、問いか、感情か……掴みきれない。
「……知らない人ばかりの施設よりも、少しだけ見知った顔がいるほうが、まだマシじゃないかと思って」
彼はほんの少しだけ俯いたあと、ベッドの縁に置いた手に視線を落とした。けれど、それは弱さからではなく、静かな覚悟の表れだった。
「もし少しでも不安なら。俺が、あなたを預かる形で……一緒に過ごしませんか?」
その瞬間、病室の静けさがほんの少し、揺れた気がした。
「もちろん、嫌なら無理にとは言いません。……どうするかは、ヨルさんが決めていい」
何も持たずに現れた彼女に、名前を渡した。
そして今度は――帰る場所を。
彼女の返事はまだない。
けれど、光を受ける黒い瞳が、ほんの少しだけ揺れた。まるで、その言葉を心のどこかで受け止めたように。
「...一緒に...」
そしてレオの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「......過ごしたい」
初めて伝えられた彼女自身の意思。その言葉に、病室の空気が静かに動いた。カーテンが、外の光を揺らすようにひらりと舞う。
レオは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かがふっとほどけるのを感じた。
「……ありがとう、ヨルさん」
そう呟いた自分の声が、思ったよりも強く、安堵に滲んでいるのがわかった。
目の前の彼女が、“共にいたい”と選んでくれたこと。その一言の重さに、彼はしばし動けなかった。
午後の陽が、彼女の白い頬に優しく触れる。
その光の中で、ヨルの黒い髪が静かに揺れ、淡くその輪郭を照らしていた。
「すぐに退院の手続き、済ませます。何か必要なものがあれば……買ってきます。服でも、日用品でも」
言いながら、レオは立ち上がるでもなく、まだ彼女のそばを離れたくないようにベッドの傍に座っていた。
“仮の保護”という名目であっても、彼女の意思で迎えられたのだと、心の中で繰り返す。
ヨルはそんな彼を見上げながら、少しだけ目を細めた。
その表情には、名前をもたない彼女が初めて見せた、わずかな安らぎの色があった。
誰かと「一緒に過ごす」という当たり前の言葉が、こんなにも重たく、温かいものだとは。
レオはその姿を見つめながら、心の中でそっと誓った。
この選択が、彼女の孤独を少しでも薄められるものであるようにと。