服毒
27.『浜辺』
蝉の鳴き声が遠くからかすかに聞こえてくる昼間。
久々のドライブは暑い日差しの中、目的地もなく続いていた。照り返しの強いアスファルトの道を、静かにタイヤが滑っていく。
エアコンの効いた空気の中、ハンドルを握る手だけがじんわりと汗ばんでいた。
助手席ではヨルが窓の外をぼんやりと眺めている。エアコンの風に髪が揺れて、薄く笑みを浮かべているようにも見えた。
信号で一度停車すると、レオはハンドルに手を添えたまま、何気なく口を開く。
「……海でも見に行くか」
視線は正面のまま。けれど、隣の彼女の反応が気になって、耳だけがそっと傾いている。
ヨルは窓の外からレオへと視線を向ける。手元に持つ帽子をそっと撫でながら、彼女は彼の提案に賛同した。
「いいね」
それは先ほど立ち寄った店で何気なくレオが買ってくれた麦わら帽子。今日の服装に合っているから、と会計を済ませた彼の思惑がいまになって理解できた。
信号が青に変わると、レオは再びアクセルを踏み込む。
「たまには、悪くないだろ」
どこか照れ隠しのように短く呟くと、ウィンカーを出して道を外れた。見慣れた国道から少し外れた道。草の生い茂る丘を抜けると、視界の先に水平線が広がる。
着いたのは2人が初めて出会ったあの海岸。
レオはエンジンを切り外へ出ると、助手席の扉を開いた。
海風がふわりと髪を撫でた。潮の香りと遠くで響く波の音。
ヨルはそっと足を下ろし、レオの手を借りるように車から降り立った。
「……なんだか懐かしいね」
瞳を細め、水平線に溶ける海を見つめる。
あの夜とは違う、夏の日差しに照らされた昼の海。
「あの時も、こんなふうに波が寄せては返してた」
そう言いながら、彼女は麦わら帽子を被った。影になった頬に笑みを浮かべ、
レオのほうへと顔を向ける。
「でも、今日の方が綺麗」
あの日。月明かりの中初めて見つけた彼女のことを思い出しながら、今目の前にいるヨルを重ね合わせるレオ。
純白のスカートに、彼があげた麦わら帽子。優しく微笑む表情は、空っぽだった彼女を自分が満たせてあげられていると安心させてくれるようだった。
「...また一緒に来られて良かった」
それは彼の心からの言葉。
いつ壊れてしまってもおかしくなかった彼女が、今自分だけを見つめてくれている。その事実に言いようのない喜びを感じていた。
「行こう、ヨル」
波打ち際までの階段を転ばないように、そっと手を差し出すレオ。
「うん」
ヨルは短く頷いて、その手を取った。
指先が触れ合う瞬間に、ほんの少しだけ息を吸う。あたたかくて、大きくて、どこまでも真っ直ぐなその手を、彼女はいつもより少し強く握り返した。
2人並んで階段をゆっくりと降りていく。
麦わら帽子の影がヨルの頬に柔らかく落ち、風が裾を揺らす。白いスカートが光に透け、砂浜と空との境界を泳いでいるようだった。
「レオ」
ぽつりと、ヨルが呟いた。
それは波の音に溶けそうなほど静かで、でも確かに届く声。
振り返ったレオの顔を見て、彼女はそっと微笑んだ。それは、今この瞬間を大切に焼きつけるような表情。
レオはその微笑みに、何か胸の奥をやさしく撫でられるような感覚を覚えた。
彼女がこうして笑ってくれる――ただそれだけで、心のどこかが救われていく気がした。
「……なんだ」
問いかける声は、どこか息を潜めるような優しさを帯びていた。彼は足を止め、手を握ったまま、真正面からヨルを見つめる。
「私のこと、...見つけてくれてありがとう」
その瞬間ふたりの間に吹いた海風は、優しく麦わら帽子のリボンを揺らす。それは、まるで映画のワンシーンのような美しい光景。
「あの日、私に手を差し伸べてくれたのがきみで良かった」
続く言葉は握った手の温もりを確かめるように静かに紡がれる。
レオは、そんな彼女の言葉にそっと目を伏せた。
あの日の夜、波打ち際に佇んでいた彼女の姿が鮮明に蘇る。何も持たず、何も語らず、それでも凛としていた――あの光景を、今もずっと忘れていない。
「……俺のほうこそ」
絞り出すように、だが噛みしめるように言葉を返す。繋いだ手を強く握り、もう一度視線を合わせた。
「おまえが、俺の前に現れてくれて本当に良かった」
彼の声には、迷いも、照れもなかった。
ただただ、心からの想いだけが乗っていた。
ヨルはそんな彼の言葉に、嬉しそうに柔らかく微笑む。そして、そっと手を引いて波打ち際へと歩き出した。
「行こう、レオ」
今度はヨルが彼の手を引いて。
「ああ」
短く返事をしながらも、レオの顔はどこか緩んでいた。無意識に力が入っていた肩が、少しだけ落ちる。引かれるままに歩きながら、その後ろ姿を見つめた。
暫く2人で海辺を歩いていると、移動販売の旗がいくつか揺らめいているのが視界に入る。彼女を見つけた季節とは違い、今は夏真っ盛り。キッチンカーが立ち並ぶ一角には人が集まっていた。
「ねえ、レオ」
呼びかける彼女の視線を辿ってみると、レオは少しだけ笑みを浮かべた。そこには、青地に白のソフトクリームの文字。
真夏の暑さをそのまま映したような日差しの下、こうして彼女がなにげなく興味を向けるものがあることが、なんだか妙に嬉しかった。
「食べたいのか?」
まるで子供のような興味を示す彼女の顔が愛おしくて、思わず目を細める。
「うん...一緒に食べよ」
控えめに、だが少し甘えたように誘うヨル。
あの時は、ただ彼女が生きているだけで精一杯だった。今こうして、普通の感情を自然に口にする姿が、レオには何よりも嬉しく感じていた。
「そうだな」
そう言って、彼女の手を握ったまま歩き出すとキッチンカーの列へと並ぶ。順番を迎えるとメニューの一番上にある、"潮風牛乳ソフトクリーム"を2つ注文した。
すると、会計を済ませる途中、店主のおばちゃんから親しげに笑いかけられる。
「あれま!ハンサムないい男がえらい別嬪さん連れてるね、今日はデートかい?」
レオは一瞬言葉に詰まりつつも、ソフトクリームを受け取る手を止めることなく、静かに微笑んだ。
「――ええ、まぁ。そんなところです」
照れた様子は見せず、むしろ少し誇らしげに、そばに立つヨルの方へと視線を向ける。
そのまなざしには“俺の女だ”というような静かな宣言が滲んでいた。
「こりゃあ美男美女で、絵になるねぇ」
おばちゃんはにこにこしながら、声を弾ませ、ふたり分のソフトクリームを手渡してくれる。
「お嬢ちゃんのはハートのウエハース、サービスでつけといたよ♪」
レオが受け取ったソフトクリームの一つには、淡いピンクのハート型がちょこんと刺さっていた。
「ありがとうございます...」
ヨルは嬉しさと困惑の入り混じった表情で、眉を下げて微笑む。レオからそっと受け取ると、陽に透けた麦わら帽子の影が、彼女の表情に揺れた。
楽しんで、とかかる声を背に店を離れる2人。
レオは彼女の仕草を振り返り小さく笑った。照れたように眉を寄せるヨルの顔があまりに可愛らしくて、無意識に隣にいる彼女の頬へと視線が吸い寄せられる。
「――似合ってるよ。帽子も、ソフトクリームも、その顔も」
からかうでも、褒めすぎるでもなく。
ただ真っ直ぐに、思ったままを口にする。
風が吹き抜け、潮の香りがふたりの間を通り過ぎていく。
レオは自分のソフトクリームに軽く口をつけながら、照れ隠しのように視線をそらした。
「"ハンサムないい男"と一緒だと、良いことがあるね」
握られたソフトクリームから、そっとハートのウエハースを引き抜くと溶けかけている部分を掬い上げ、口へと運ぶ。その声色は少し拗ねたように、だがどこか嬉しそうに聞こえた。
レオはそんな彼女の様子に気づくと、喉の奥で控えめに笑う。その笑みにからかいの色はなく、ただ彼女の機嫌が少し傾いたのを、可愛いと思っただけのように柔らかい。
「……良かったな、これから先も良いことだらけだ」
そう言いながら、レオは彼女のソフトクリームを持つ手に視線を落とした。
小さく欠けたハートのウエハース。彼女の唇に触れたそれに、少しだけ視線が留まる。
「“別嬪さん”の隣は誰にも譲らないから」
彼はそう言って、自分のソフトクリームをひと口すくってから、もう一度ヨルの顔を見つめた。
控えめに舌先でアイスを舐め取ると、そんな彼の宣言に思わず笑みを溢すヨル。砂の上に残る二人の足跡を確かめるようにゆっくりと呟く。
「楽しいデートだね」
陽射しに透ける麦わら帽子の影の奥、愛おしそうに見つめる澄んだ瞳。そっと濡れた唇を舐めたその仕草まで、レオの鼓動を無遠慮に高鳴らせる。
暑い日差しは2人のソフトクリームをじっくりと溶かし、ふと、彼女の指先にひとすじ白く溢れた。
レオはその様子に気づくと、足を止め、彼女の手元に視線を落とす。流れていくアイスを拭き取るため、ポケットからハンカチを取り出そうとした――が。
ふと、その白い雫を目で追い、何かに突き動かされるような行動に変わる。
「……動くな」
低く囁いた声と同時に、レオは彼女の手首をそっと持ち上げた。
そのまま、濡れた指先へ自分の唇を近づける。
一瞬のためらいも見せず、舌先でそっとすくうように、その甘さを拭い取った。
触れたのは一瞬。けれど、彼の瞳はまっすぐヨルを見ていた。
濃く、深く。彼女の内側まで見透かすような熱を帯びた目で。
「……溶ける前に、ちゃんと食べろ」
少しだけ掠れた声。それは僅かに熱を帯びていたけれど、そのあと不器用に目を逸らす仕草が、レオという男の誠実さを何より物語っていた。
「...レオ、今の」
彼の突飛な行動に思考が追い付かず、眼を丸く一瞬固まるヨル。そしてレオが触れた自身の指に視線を落とす。
「...ドキッて、した」
目を逸らす彼を揶揄う余裕もないほどに。
その言葉にレオの足が止まった。
振り返らないまま、ほんの一瞬だけ息を止めたように静止する。潮風が横切る中、彼は小さく唇を歪めて、目を伏せたまま低く答える。
「……そうか」
無骨なその言葉とは裏腹に、彼の耳は少し赤らんでいた。
「これは確かに"心臓に悪い"、だね...」
彼に届いてるかどうか分からないほどに小さな声で呟いたヨル。彼に悪戯に触れたとき、何度か口にされた言葉。その意味を彼女は今、理解していた。
潮の香りと風の音。
白いスカートの裾が揺れて、麦わら帽子のリボンが踊る。濡れた砂を踏むたび、ふたりの影が寄り添うように染め上げる。そんな一日だった。