服毒
36.『牙』
朝の日差しがカーテンの隙間から柔らかく差し込むリビング。レオはいつものようにリビングの椅子に腰かけ、深煎りの香りが立つコーヒーカップを手にしていた。
ひとくち啜って深く息を吐く。苦味と香りが、身体の奥にゆっくり沁み込んでいった。
「...おはよう、レオ」
その声に視線を上げると、長い髪をゆるくまとめ、まだ寝巻き姿のヨル。裸足のまま、脚を組んでベッドの縁に座っている。
「起きたのか」
起こさないように、静かに移動して30分。
そんな何気ない挨拶にも満たされる、自分自身に可笑しくなりながら、彼はそっと優しい声色で返した。
「おはよう、ヨル」
ヨルはそんなレオをぼんやりと見つめている。彼の柔らかな顔つきや、指先でカップを包む仕草までもが、いつもより近く感じられて少し胸がざわつく。
「ねぇ、そういえば...」
そこで少し言葉が途切れる。特に感情の乗っていない、いつも通りの声。
「……どうした?」
彼女に視線は注いだまま。続きを待ちながら、レオはカップをもうひと口傾けるとそう問いかけた。
「ナギサさん、元気にしてる?」
彼女が名前を出したのは家にまで押しかけ、レオを手放せと懇願してきた女性。
あんな事があったが同僚である以上は、今も少なからず関わりがあるだろうか。ヨルはふと、そう考えて口に出した。
彼女のそれは怒りなどではなく、単純な興味。
一瞬、手の中のカップを持つレオの指に力が入った。ほんのわずかな反応だったが、ヨルの前では隠せない。彼は視線を落とし、コーヒーの表面にわずかに揺れる影を見つめたまま、静かに口を開く。
「……あいつなら、3日前に移動になったらしい。今は別の署にいる」
淡々と答えたつもりだったが、その声にはかすかな安堵が滲んでいたかもしれない。
ヨルにあの時見せられた“本気の目”が、頭を離れなかった。彼女の領域を誰かが踏み越えたとき、その罰は冷たく、けれどどこまでも静かで──あまりにも、鋭かったから。
「本人の希望でな」
それが、レオなりの“証明”だった。
目を上げれば、ベッドの縁で脚を組み替えたヨルと視線が交わる。
その瞳には、喜びと油断のない観察とが、同時に宿っていた。
「そっか」
淡白に。だが、嬉しそうに微笑む。交わった視線を手繰り寄せるように、彼女は立ち上がり彼へと近づく。
だが、彼女は思わせぶりに彼の椅子の背もたれを撫でると、後ろを通り過ぎた。
「ああいうことって多いの?」
セミオープンのキッチンで、淡々と自分の分のコーヒーの用意をするヨル。
彼女は普段から、嫉妬心を見せることがほとんどない。もし見せたとしても、それはどこか可愛らしく、向けられる視線はレオだけに、静かに塗り替えるようにして納められる。
だがあの時だけは違った。被った仮面は外さぬまま、静かにその視線だけが標的を捉えて離さない。あくまで自分からは手を出さず、向かう敵意には鋭い牙で返す。
レオの心が自分にあるのを確かめるように転がして愉しむと、興味がなくなったかのように捨てる。そんな本質が滲んでいた。
「……何のことだ?」
コーヒーを口に運ぶふりをして、レオは問いをやり過ごそうとした。だが、隠せるわけがない。
視線を落としながらも、キッチンに立つヨルの気配は確実に感じ取っている。彼女の立てた音ひとつ、動きひとつが妙に鮮やかに意識に残る。
ヨルは本気で怒るとき、声を荒らげたりはしない。ただ“静かに、確実に”、相手の首筋へと牙を立てるだけだ。
だからこそ、彼女の“淡々とした問いかけ”の方が、よほど怖い。
「私以外から向けられる、きみへの好意」
コーヒーを片手に、反対の手ではレオの肩から首を優しく撫でていく。そして何事もなかったかのように対面の椅子に腰掛けると、嘘のように微笑んだ。
「他にもあるの?」
彼女の手が触れた瞬間、肩から首筋まで、火照ったような感覚が一筋走っていた。
コーヒーの香りが霞むほど、ヨルの仕草ひとつに神経が奪われる。
レオは黙って彼女を見返した。
対面に腰を下ろした彼女は、優雅に、穏やかに──まるで何も知らない顔で問いかけてくる。
だがその笑みの奥にあるのは、明らかだった。
それは「試す」眼差し。
すべて見通しているくせに、あえて答えを聞こうとする彼女の、静かな支配。
「さぁな……気にしたことがない」
短く息を吐きながら、視線を逸らす。
明らかに不自然な間があった。答えになっていないと自分でもわかっている。
それでもなぜか、彼女の前では素直になれなかった。いや、素直になったら──たぶん、完全に彼女の掌の上だ。
「……おまえ以外に、興味はない」
それだけは確かだった。
ただ、今のヨルにはその言葉すら、きっと“飾り”に見えるのだろう。
「そう」
頬杖をつき、マドラーでゆっくりとコーヒーをかき混ぜる。カップの中に視線を落としながら、口元に浮かぶ微笑みは崩さない。
「私ね。きみの前ではなるべく可愛くいたいの」
荒っぽい言葉なんてひとつもない。恋人の前で可愛くありたい、ただそれだけなのに彼女の言葉は酷く冷えていた。
コーヒーを一口すするふりをしながら、彼は彼女の目を見ていた。けれどヨルは目線を落としたまま、彼に“本心”を悟らせようとはしない。
カップの中で揺れる黒い液面よりも、もっと深くて冷たい何かが、彼女の言葉の裏に潜んでいる。
「……ヨル」
呼ぶ声には、わずかに焦りが滲む。
さっきまでの空気とは違う。甘くもしなければ、柔らかくもない。ただ、張り詰めた静けさだけが、二人のあいだを満たしていた。
「遊んであげるのは楽しかったけど、」
そこで言葉を区切ると、彼女に見向きもせず私の手を取ったあの日の彼の姿を思い出す。比較対処にもならない、圧倒的な差。
──だが、
「...許してるわけじゃない」
ナギサの存在は、レオが自分に向ける特別な好意を自覚するのに悪くない玩具だった。だが、それは彼女の行為自体を許しているわけではない、ただ強く咎めなかった、それだけ。
ヨルの言葉が、静かにテーブルを渡ってレオの胸に突き刺さる。彼女はいつも通り穏やかで、柔らかな物腰を崩さない。けれど、その静けさの奥にある鋭さを彼は誰よりもよく知っていた。
「……そうか」
低く、短く返す。
情けなさと、苛立ちと、何よりも――
恐怖に近い焦りが混ざった声だった。
椅子を引いて立ち上がると、レオはテーブルを回り込んで、ヨルの隣へとゆっくり歩み寄る。
真正面から彼女と向き合い、その横顔をじっと見つめた。
「……悪かった」
そう言いながら、そっと彼女の頬に手を添える。不器用に目を伏せ、反省を告げた。ただ、彼女の胸に残った何かを拭うように。
「レオが謝る必要はない」
頬に添えられた手に顔を傾ける。手の温もりを受け入れ、ゆっくりと目を細めたヨル。
「悪いのは、人のものに手を伸ばした彼女」
レオのいない時間に彼女が、一体何していたのか。彼に悟らせないよう隠す、そんな優しい微笑み。
「……っ」
レオはわずかに眉を寄せた。
ヨルの柔らかな声音とは裏腹に、彼女の中にある氷のような静けさを、触れているこの手のひら越しに感じ取っていた。
彼女は決して怒っていないふりをしているわけじゃない。本当に怒ってなどいない。
ナギサという存在に対する興味も、敵意も、すでに終わったものとして見下ろしている。
「……なあ、ヨル」
低い声で呼びかける。
まるで隠された答えを恐れているように、ヨルが“何をされたか”ではなく、“何をしたのか”が、心の奥で疼いて離れない。
それでも、彼女を離すことはない。
自分だけを見てくれているその確信を、もう一度確かめるように親指でなぞる。
「意地悪してるところ、レオには見られたくない」
彼の反対の手を取ると、同じように頬に触れさせる。まるで自分しか見せないとでも言うように。
「だから、気をつけてね」
そして静かに瞳を細める。
「お願い」
その言葉は釘を刺すようで、だがまるで愛を囁くように。甘く彼の胸に響いていた。
レオの目の前にいるのは、誰よりも優しくて、誰よりも怖い人間だと改めて思い知る。
「……ああ、わかった」
少しだけ声が震えた。
だが、レオの手のひらに添えられた彼女の頬は温かくて。触れたその感触に、自分の緊張がほどけていくのがわかる。その温もりは“レオだけに許されたもの”だから。
「ありがとう」