服毒

37.『共犯』


昼下がりのカフェ。
ガラス張りの窓の向こうでは、ゆるやかに時間が流れている。テラス席に届く春の風は、コーヒーの香りといちごの甘い匂いを混ぜて、穏やかな空気をつくっていた。

テーブルに置かれた小さな白い皿には、フォークを入れたばかりのいちごケーキとティーカップ。そしてカップに注がれたブラックコーヒーの湯気が、陽光にかすかに揺れている。

「美味しいか?」

そう言いながら、レオは湯気越しにヨルを見る。ヨルの頬にうっすら紅が差していて、それがいちごの色と重なる。何気ない一言だが、どこか楽しげに、けれど真剣に彼女の仕草を観察している視線だった。

「うん。甘くて美味しい」

ふわふわのスポンジと、甘酸っぱい苺が口の中で溶けて、まるで春をそのまま閉じ込めたみたいな可愛いケーキ。生クリームも軽やかで、ひとくちごとに幸せが広がる。

「一口、食べる?」

彼女はそう言うと一口分をフォークに乗せ、正面に座るレオへと腕を伸ばした。

レオは少し眉を動かし、ヨルの差し出すフォークを見つめる。周囲の目も気にせず、それを自然にできる彼女の仕草がどこか不思議で、愛おしい。短く笑うと、ゆっくりと身を乗り出してそのケーキを受け取った。

「……甘いな」

口の中に広がる苺とクリームの優しい味。それよりも、彼女が自分に差し出したという事実の方が、よほど甘ったるく感じた。

「優しいね、レオ」

彼がフォークを咥える瞬間を目を細めて追うと、満足げに微笑む。

「甘い物、好きじゃないのに」

視線はケーキに乗る苺へ。ゆっくりとスポンジを切り裂き、食べやすい大きさに整える。

「私が差し出せばどんな物でも受け入れてくれる」

そう言うと、静かに二口目のケーキを口へと運んだ。

レオはカップを指先でなぞりながら、その言葉にわずかに眉を寄せた。
視線はヨルの手元に、淡く光るフォークの先へと落ちる。彼女の言い回しには、どこか引っかかるものがある。だが、すぐに言葉にすることはしない。

「ヨルがくれるものが、全部好きなだけだ」

そう答えながら、静かにコーヒーを口に運ぶ。苦味が舌の奥に広がり、さっきのケーキの甘さを洗い流していく。けれど、胸の奥にはまだほんのり甘さが残っていた。

テラスには他の客の談笑が遠くに混じっている。風がレオの髪をかすかに揺らした。
しばらく言葉を交わさず、静かに時間が流れる。

やがて、ヨルをまっすぐに見つめながら、低く問いかける。

「……それで?」

声には静かな重みがあった。
ただのじゃれ合いで済ませるつもりのない、探るような真剣さがそこにある。

「ただ気になっただけ。きみが私を拒絶するにはどうしたらいいのか」

わずかな笑み。だがその視線は、ほんの少しだけ長くレオを見つめていた。ケーキではなく、彼の手元でもなく——その奥にあるものを見透かすように。

レオは微かに眉をひそめた。ヨルの笑みにこそ柔らかさがあっても、その奥にある問いには鋭さと深い影がある。
彼女の視線が自分の「内側」に触れようとしているのを、確かに感じた。

「拒絶なんてできるわけがない」

そう呟いた声は低く、ほとんど囁きに近かった。

「...そっか」

彼女はケーキへと視線を戻すと、スポンジの間から溢れた赤いシロップを掬い上げる。

「私の嫌いなところ、ないの?」

ゆっくりと可愛いケーキを崩しながら、その声は淡々と。甘さ以外は何も含まない。だがそれは単なる確認ではなく、彼の愛情の輪郭を試す問いのようにも聞こえた。

レオはゆっくりと背凭れから身を起こし、コーヒーに触れずに、彼女の手元を見つめた。
フォークの先にまとわりつく赤いシロップ。その艶やかな色が、妙に生々しく目に焼きつく。

「ない、一つもな」

すぐに答えたその声は、固くも、優しくもない。ただ事実を告げるような、真っ直ぐな響きだった。

彼女の伏せられた長い睫毛が僅かに揺れる。そしてもう一口甘いケーキを運ぶと、口元でフォークを止めた。

「……じゃあ、たとえば」

視線を上げ、彼の胸元へ。

「私が過去に大勢の人を手にかけていたとしても?」

そしてゆっくりと瞳を見上げていた。それは単純なもしもの話。彼女の過去に眠る空白がどんな物で塗られていても、受け入れてくれるのか。そんな不安を孕んだ言葉。

「...レオはそんな汚れた手まで好いてくれる?」

そう言うと彼女はケーキを口に含み、美味しそうに微笑んだ。

レオの瞳が細くなる。
けれどそれは怒りでも驚きでもなく、息を止めるような沈黙だった。

ヨルの言葉がゆっくりと胸に沈んでいく。彼女の穏やかな笑顔と、口にした“もしも”の重さ。そのギャップがあまりに静かで——それゆえに強く心を揺らす。

レオは手元のカップに触れ、指先で一度回すようにして、そのまま飲まずにそっと置いた。
彼女の視線を真っ直ぐに受け止めながら、静かに、低く言葉を紡ぐ。

「……もし、本当にそんな過去があったとしても、おまえが俺の隣にいるのなら関係ない」

彼はそれを当然のことのように口にした。
ヨルを好いていることは、善悪でも情けでもない。そういう理屈を超えて、ただ、それしかないのだと。

彼女はフォークを置いて、己のティーカップに手を伸ばす。そして、紅茶の香りと彼の言葉を丁寧に咀嚼するようにゆっくりと瞳を閉じた。

「......なら、その"もしも"がこれからのことでも?」

まるで何でもないことのように。一口含んだ紅茶はケーキの甘さを塗り替えていく。

レオは少しだけ肩を揺らし、気づかれないほどの呼吸をひとつ吐いた。けれどそのまなざしは揺るがず、真っすぐに彼女を見ていた。

「……これからだとしても、同じだ」

低く、静かに、それでも確かに届く声。

「俺はおまえの全部を引き受けるって決めたんだ。過去だけじゃない。これからどんな選択をしても、何を壊しても——」

レオは言葉を切り、少しだけ身を乗り出す。
テーブル越しに、彼女との距離をほんのわずかだけ詰めて。

「……もう手遅れなんだよ、ヨル。俺は、おまえを好きになりすぎた」

その言葉には、ためらいも言い訳もなかった。
まるで彼女の言葉の裏にある“狂気”を、すでに理解していて、受け入れていて、それでもなお……と前提として愛している。そんな異常なまでの真剣さがにじんでいた。

彼の言葉が耳に届くと、ヨルは僅かに息を吸い込む。まるでこの時間を噛み締めているかのように。

「きみの言葉はとっても心地が良いね。...ずっと聞いていたいくらい」

ヨルは瞳を開くと、真っ直ぐに見つめる彼を見返した。ティーカップをソーサーに戻すともう一度フォークを手に取る。

「でもね、きみは警察官だから」

そして一番上に乗る苺へと。

「...そんな悪いこと言っちゃダメ」

彼女はゆっくりと口へ運ぶと、心底美味しそうに目を細めた。

レオはしばし無言で彼女の仕草を見つめていた。フォークの先が口元に触れる瞬間、頬を綻ばせるその表情。
それはまるで、ただ甘いケーキを味わっているだけの、無垢な少女のようで——

だが、その言葉の奥に潜んでいるものに気づかないほど、彼は鈍くなかった。

「……そうだな。俺は真面目で、正しくなくてはいけない」

そう口にした声はどこか揺れていた。
レオは視線をカップへと落とし、ゆっくりとそれを持ち上げる。
黒く苦いコーヒーをひと口。喉を通りすぎる温度が妙に遠く感じられる。

「だが、法や倫理で手に入れられないなら、」

そう言ったあとの沈黙は短かった。だが、その一言には既に答えが含まれていた。

「……誰かの正義より、おまえの罪を守る方が、俺にとっては重要かもしれない」

顔を上げた彼の目は、冗談の色ひとつも浮かべていなかった。
まるで本当に、それを実行する未来が既に彼の中にあるかのような、静かな危うさだった。

「...嬉しい」

彼女は視線をケーキへと落とすと、その最後の一口を大切に名残惜しそうに口に運んだ。バランスの取れた上品な甘さを確かめるように。

そして静かに飲み込むと、フォークを皿に置き、満足そうな瞳で彼を見上げる。

「...でも安心して、そんな"もしも"はこないよ」

ティーカップが唇に触れる寸前。

「私はきみの正義感も好きだから」

そう言って彼女は微笑んだ。

レオはその言葉を聞いて、短く息を吐く。
それは笑みとも溜息ともつかない、どこか安堵にも似た息づかいだった。

「……そうか」

テーブルの上で、彼の指先がカップの縁をなぞるように動く。
無意識の癖だ。言葉を探しているとき、心が揺れているときにだけ出る、彼の小さな習性。

「おまえが誰かを傷つける必要はない」

コーヒーの湯気が静かに昇る。
それを見つめながら、彼は続けた。

「ただ、こうして隣にいてくれるだけでいい。俺は——」

言いかけて、ふと口をつぐむ。

それは「好きだ」や「愛してる」なんて月並みな言葉では足りない、もっと深く、重く、決定的な何かを言いそうになったから。

その代わりに、彼は目の前の彼女へと手を伸ばした。
ナプキンを取るふりをして、ほんの一瞬だけ、その指先が彼女の指に触れる。
触れただけ。それでもそこに宿る温度は、明確な意思の表れだった。

「……おまえを大事にしたいんだよ、ヨル」

ヨルは僅かに触れた熱に愛おしそうに息を吐く。彼女は落ち着いて紅茶を飲み干すと、温かい瞳で彼を見据えた。

「レオ。またこのお店、来ようね」

敢えて、彼の言葉に返事はない。

「とても美味しいケーキだった」

それはとても小さな未来の約束。
レオはその言葉を聞くと、穏やかに頷いた。

「……ああ、また来よう」

短く、それだけ。けれどその声音には、確かな温度が込められていた。

静かに立ち上がると、彼はテーブルの上をひと通り確認し、支払いを済ませるために一歩だけ歩き出す。そしてすぐに振り返って、彼女へと手を差し出した。

「行こう、ヨル」

その手には、何の強制もない。けれど、彼女が差し伸べた時のように、ただ自然に、彼女の存在を確かめたくて伸ばしたものだった。

「うん」

テラス席に差し込む木漏れ日が、二人の影を長く繋ぐ。
春の風が吹き抜ける午後。
ただ静かに、ふたりは同じ歩幅でカフェを後にする。

平穏な時間がそこにあった。
けれどその奥には、お互いの深く静かな狂気と愛情が、何もなかったような顔をして寄り添っていた。
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