服毒
04.『朝食』
光が差し込む気配で目を覚ました。カーテンの隙間から薄く射す朝の陽が、部屋の空気をやわらかく染めている。寝起きの頭でまず感じたのは、鼻先にかすかに残る香ばしい匂いだった。パン……それに、ベーコンを焼く音が小さく聞こえる。
ヨルが早起きしたのかと、布団の中で目を細めながらぼんやりと考える。起き上がると、空気がひやりとしていて、寝間着の裾が足に絡む。リビングとキッチンが繋がった部屋の方へ視線を向けた、そのときだった。
彼の視線の先にいたのは、レオのシャツを一枚だけ羽織ったヨルの後ろ姿。
肩から背中にかけて布地がゆるく流れている。彼女の細い身体に、彼のシャツは少し大きすぎた。腰のあたりでシャツの裾がひらりと揺れて、朝の光に透ける足のラインが露わになる。無防備すぎる姿に、レオの思考が一瞬で吹き飛んだ。
キッチンでフライパンを握る手元に目をやれば、結ばれた髪が揺れ、白いうなじがちらりと見える。あれは完全に無自覚だ。いや、無自覚であってくれ。
──なぜ起き抜けから理性を焼かれてるんだ
レオは咳払いひとつして、わざと足音を響かせながらキッチンへ向かった。
「……俺のシャツ、着てるのか?」
声に込めた威圧感が、自分でも思ったより低く掠れていて、むしろ色気の方が勝ってしまった気がしてならない。
「おはよう、レオ」
何事もないかのように挨拶をするヨル。淡々と朝食の準備を済ませて席に着く。
「昨日洗濯し忘れて服がなくて。それに、レオの匂いに包まれて心地良かったから」
似合ってる?と悪びれもせず微笑むヨル。
ヨルのその一言で、頭の奥がぐらりと揺れる感覚がした。無意識に拳を握る。笑ってごまかすには刺激が強すぎた。
「……似合ってない、そんなもの」
低く呟くように言いながらも、目は逸らせなかった。
ヨルが席に着いたその瞬間、シャツの裾がふわりと揺れて太ももがちらりと見えた。脚を組む仕草さえも、余計に意識させる。
ああ、たしかに似合ってる。
だけどそれを口にするのは負けのような気がして、黙って水を飲む。ひとくち、ふたくち。喉が渇いているのか、それともこれは──。
「……俺がどう思うか少しは考えろ」
かすれた声で、少しだけにらむようにヨルを見る。
朝の光の中、彼女の横顔はどこまでも無邪気で、それがまた厄介だった。
本当に誘ってるつもりがないんだろう。
だが、わかっていてやってる節も……少しだけ、ある気がする。そんなふうに思ってしまう自分が、もっと厄介だ。
箸を手に取ると、焼いたベーコンに視線を落とす。理性の試練は、今日も朝から始まっている。
「嫌だった?」
勝手に着たから不愉快だったのかとレオの気も知らずに僅かに心配するヨル。
その声色に、ぴたりと動きを止めた。
「……」
顔を上げれば、ヨルがじっとこちらを見ていた。まっすぐに。
唇に触れかけていたベーコンを皿に戻し、しばし視線を交わす。
その目に、ふざけた色はなかった。
無邪気な挑発でも、いつもの意地悪でもなく──ただ、まっすぐな。
「……そういう意味じゃない」
低く息を吐き、椅子に深く腰掛け直した。
手ぐせのように髪をかき上げてから、またヨルに目を向ける。
「嫌じゃない。むしろ……好きすぎて、どうにかなりそうなだけだ」
そこまで言って、自分でも妙に熱を持った声に気づき、少しだけ口を噤んだ。
朝から何を言ってるんだ、俺は。
けれど、今のヨルの表情を見たら、嘘なんてつけなかった。
「……おまえが俺のシャツを着て、匂いが好きだなんて言うから、こっちはずっと……」
もう少しでも、気を緩めたら。
抱きしめてしまいそうで。引き寄せてしまいそうで。けれど、そんな衝動すら、どこかで愛おしいと思ってしまっている。
彼の言葉から意図を察したヨルは安心したように小さく笑う。
「私に触れたくなったの? 昨日の夜みたいに、」
今度はレオの気持ちを理解したうえでの悪戯な挑発。ヨルの瞳がわずかに細まり、いたずらを仕掛ける猫のような表情になる。仕事に向かう前の朝、こんな状況で手は出せないだろうと、たかを括った余裕。
その言葉に、喉奥から何かが軋む音がした。
レオのこめかみがピクリと動く。
「……ヨル」
声は落ち着いていた。
だが、その奥に確かに熱があった。
深く沈んだ静かな炎のように、ゆっくりと確実にこちらを侵食してくる熱。
「……それがどれだけ危ない挑発か、わかって言ってるんだよな?」
朝の匂い。警戒なく見つめるヨル。
彼のシャツを無邪気に着こなし、太ももを無造作に晒し、余裕の笑みで「触れたくなった?」などと──。
時計に目をやれば、出勤まであと三十分を切っていた。そうだ。この状況で、俺は“何もしない”。それが普通の選択。
だけど、そんな理屈は、今のヨルの前ではまるで頼りにならなかった。
「……本気で遅刻することになるぞ」
椅子の背から身を起こし、ヨルの方へ僅かに近づく。睨むような視線の奥に、甘やかな苦悩と、抑えきれない愛情が滲む。
「……それでも、試してみるか?」
静かに。だが確かに、挑発に応じる気配を込めて。
レオに応えるように、ヨルは静かに椅子から立ち上がる。そしてそっと首に腕を回し微笑むと、彼の頬に軽くキスをした。
「駄目。仕事に遅刻するなんて悪いコトしたら」
レオの淡い期待を打ち砕くように、早く食べないと本当に遅れるよと声をかけるヨル。
──完全にしてやられた。
腕が首に回された瞬間、心臓がひときわ大きく跳ねた。けれどその後に届いたのは、軽く触れるだけのキスと、思いがけない拒絶の言葉。
「……っ、ああ……もう……」
喉の奥で笑い混じりのため息が漏れた。
心を焦がした張り詰めた期待が、まるで風船のようにふわりと浮かび上がったかと思えば、ヨルの無邪気な笑顔の針で見事に破裂した。
「そういうとこだよ、おまえ……」
どれだけ理性を締め上げればいいんだ。
けれど、そんな風に犯していくヨルが──レオはどうしようもなく愛しかった
仕方ない、と呟いてベーコンを口に運びながら、チラっとヨルを見る。彼女はもう、何事もなかったように反対側の席に腰を下ろし、トーストにバターを塗っていた。
淡い光の中、シャツ一枚のままで。
首筋には、彼女がほんの一瞬だけ触れた、さっきのぬくもりがまだ残っている気がして──思わず、目を細めた。
「……今夜、覚悟しておけよ」
朝食の合間に、ふと漏れたその一言は、あくまで静かに。だけど、その声の奥には確かな決意と、ひとつの宣戦布告がこめられていた。
「楽しみに待ってる」
目を細め、楽しそうな表情で返すヨル。簡単に彼を手のひらの上で転がし反応を愉しむ。
感情表現の乏しかった純粋な彼女はもういない。
レオの箸の動きが一瞬止まった。
目の前のヨルは、ただ微笑んでいる──だが、その奥には確かに、こちらの反応を計算した確信犯の笑みが潜んでいる。
「……本当に、変わったな」
思わず漏れた言葉に、自分でも驚いた。
昔のヨルなら、こんなふうに表情で揺さぶることなんてできなかった。記憶を失い、無垢で、感情を言葉にすることすらたどたどしかったあの頃。
だが今は違う。
目の前にいる彼女は、自分の仕草ひとつで俺がどうなるかをよく知ってる。
そして、それを──愉しんでいる。
トーストを口に運びながら、わざと軽く睨みつけてみせた。だが、視線の奥にあるのは怒りではない。むしろ、どこか嬉しさに近いもの。
変わった。けれど、それは“俺の前でだけ”見せる顔だ。そう思えば、こんな駆け引きさえも、全部が──たまらなく嬉しい。
「……降参だ」
苦笑を含んだ声とともに、グラスの水を一口。
けれどその瞳は、いつまでもヨルから離れなかった。仕事前のひとときとは思えない、心臓が騒がしい朝だった。