服毒

05.『衝動』


薄暗い玄関に足を踏み入れた瞬間、鼻にふわりと漂ったのは、ヨルの香りだった。

リビングまで入り、ソファに目を向ける。丸まって眠るその姿。毛布がずり落ちた肩先に、肌がのぞく。

一瞬、思考が揺れる。
喉の奥が熱くなる。
さっきまで自分の中に押し込めていた感情が、ぶわっと泡立つ音を立てる。

「……クソ」

小さく舌打ちしながら、ぐっと拳を握り込んだ。
なのに足は勝手に近づいていく。気づかれないよう、静かに、けれど吸い寄せられるように。

目の前で眠るヨルの頬にかかる髪をそっとかきあげ、指先が震える。

「……無防備すぎる」

そう言いながらも、声はどこか掠れていた。
自分の中の感情が、薬のせいなのか、それとも本当の本心なのか──その境界すら曖昧になる。

付き合いで行った飲み会の、二次会で訪れた店。そこで無理矢理に飲ませようとしてくる女がいた。確証も無くとりあえず口に含んでその場を済ませたが、あれは間違いじゃなかったのだろう。今彼の身体にまわっているのは酔いではなく、媚薬による甘い熱。

彼女に指一本触れたら、自分を抑えられなくなるかもしれない。
でも、いま触れなかったら──もっと壊れてしまいそうだった。

震える手が、そっと彼女の頬に触れる。

「……ヨル」

隠せない熱を孕んだ声で、彼女の名を呼んだ。

「……おかえり、遅かったね」

彼の声に気がつくと、まだ眠そうな目を擦りながら小さな欠伸を一つ。警戒心なんてまるでない、いつも通りのハグ。

「沢山飲んだの? レオからお酒の匂いがする」

寝起きの緩んだ表情のまま少し微笑むと、レオの肩に体重を預ける。少し熱ったレオの体温に違和感を覚えつつも、酔っているのだろうと気にも留めない。

彼女を抱きしめ返した腕に、無意識に力がこもる。柔らかく、温かく、いつものヨルの体温。けど、それが今日に限って、妙に焼けるように感じた。

「……あぁ、少しだけな」

吐息を落とすと同時に、首筋に触れたヨルの髪が揺れる。香りが鼻腔をかすめるたび、奥底に押し込んでいたはずの欲望が、じりじりと滲み出す。

「……ヨル、ちょっと、離れろ」

そっと肩に手を添えた。けれど、それ以上に強く抱き寄せてしまいそうな自分が怖くて、手の力は中途半端に宙を彷徨った。

「……俺、今日はあまり……普通じゃない」

自分の声が掠れているのが分かった。苦しげに眉根を寄せ、視線を逸らす。

「優しくできる自信がない」

言ってしまってから、酷く後悔した。
そんなこと、言うべきじゃなかった。
けど、嘘をついて「平気」だなんて言えなかった。

震える指先が、彼女の髪をそっと梳く。
いつもと明らかに様子の違うレオを見て寝ぼけていた目が覚める。

「どうしたの。レオが嫌がるようなこと何かした?」

距離を詰めようとすると離れる彼に違和感を覚える。

「……違う。おまえは何も悪くない」

すぐに否定するように、低く息を吐いた。
けど、心の奥底に渦巻いている衝動は言葉ほど素直に引いてはくれない。

「むしろ……良すぎるくらいだ」

揺れる視線が、そっとヨルの顔を捉える。
眠気が抜けて僅かに不安を浮かべたその表情に、胸が痛くなった。

「店で変な女に絡まれた。飲み物に何か入れられてたみたいで……すぐ気づいて対処はしたけど、まだ完全に抜けきってない」

唇を噛む。
目の前のヨルを抱きしめたくて、押し倒したくて、それを必死に堪えている自分が、情けなかった。

「……ごめんな」

そう言いながら、そっと手を伸ばし、ヨルの頬に触れた。火照った掌と頬が触れ合うと、ひとつだけ、落ち着ける気がした。

「今は自分の欲に勝てる自信がない」

悔しげに眉を寄せながら、目だけは逸らさずにヨルを見つめる。

「そっか」
淡白に。だが何処か安心したように呟くヨル。

「レオ、苦しい?」
自分のために必死に堪えている彼が少しでも楽になれるなら、そう思うと同時に彼の決意を曲げるのも彼に後悔を与えてしまうだろうかと躊躇する。

「……ああ。正直、死ぬほどキツい」

困ったように笑うと触れていた頬から手を離し、代わりにヨルの手をそっと握る。
熱を帯びた掌が重なるその感触に、たまらず喉が鳴った。

「触れたくてたまらない。だけど……」

絞るような声で吐き出す。
呼吸は荒く、視線も揺れている。それでも彼女の手を握る指だけは、強くも優しく、必死だった。

「ただの衝動で、おまえを抱くようなこと……絶対したくない」

本当に欲しいのは、彼女の気持ちごと、すべて。薬のせいだとしても、その線を越えたら、自分自身が自分を許せなくなる。

「俺に、この衝動を抑えさせてくれ。頼む」

堪えるように、目を閉じた。
それでも手だけは離さない。
まるで彼女が自分の重しであり、救いであると信じているかのように。

いつだって真っ直ぐで曲がることのない彼の見たことのない表情。信じている存在だからこそ、好奇心に揺らぐ。

「嫌だって言ったら?」

理性を保たせてくれ、そう必死に懇願する彼の言葉に悪戯な表情を返してみる。繋いだ手の指をゆっくりと絡ませながら。

「……なんてやつ」

そう言いながらも、レオの声には怒気はなかった。むしろ、どこか縋るような苦しさと、たまらない愛しさが滲んでいた。

「そんな顔するなよ……」

堪えるように、ヨルから視線を逸らす。
けれど、手だけはまだ繋いだまま、今にも彼女を抱きしめそうな距離で震えている。

「こんな状態で手を出したら、後で絶対に自分を嫌いになる」

低く、息を押し殺すような声。
その一言一言に、どれだけ自分を抑えているかが滲んでいた。

「ヨルの全部が欲しい。だけどそれは……おまえが正気の俺を、ちゃんと選んでくれたときだけだ」

その言葉に重なるように、レオはそっと額をヨルの額に重ねた。触れ合うだけの、何も起きないはずの距離なのに、それすらも今は危うい。

「私は嫌じゃないよ」

彼が自分の欲望に打ち勝てることを知っているからこその意地悪。信用しきった無防備な返答。反対の腕を彼の腰へと回す。

レオの肩が微かに揺れた。
その言葉を聞いた瞬間、押し殺していた何かが胸の奥で軋む音を立てる。

「……わかってないよ、おまえ……」

そう呟くと、そっと繋いでいた手が離れ、代わりにレオの大きな手がヨルの頬に触れた。熱を持った掌が、けれどとても優しく彼女の輪郭をなぞろうとする。
その指先には怒りも苛立ちもない。ただ、どこまでも切実な「願い」が宿っていた。

「……試すようなこと、しないでくれ」

そのまま彼は目を閉じ、ヨルの額へ再び触れた。静かに、けれど震えるように深く息を吐く。

「俺がどんな状態か、分かってるのに……そんなこと」

声は低く、かすれていた。
でもその言葉の裏にあるのは怒りではなく、むしろ「抑えている今を、信じてくれ」という訴えだった。

ヨルを守りたくて、でも今夜ばかりは、自分がそれに値する存在でいられるのか──その葛藤が、彼の表情にすべて刻まれていた。

「レオにならどんな風にされたっていいよ。……これは意地悪じゃなくて本当の気持ち」

普段見られない必死なレオの表情ひとつひとつを焼き付けるように見つめる。恨むべき相手であるはずの薬を盛った犯人に、今はどこか感謝している。そしてそれと同時に彼の全てが向けられているのが自分で良かったという強い安心感が心を満たす。

無理矢理にでも、壊れるように飼われるようにでも、何でも良い。彼が私だけを見ているのなら、そんな結末も悪くない、そう思えていた。

レオの瞳が、揺れた。
ヨルの一言一句に、張り詰めた心が波紋のように揺れて、ほんの一瞬、理性が音を立てて崩れかけた。

「……ヨル、ほんとに、」

震える声で吐き出されたその言葉は、怒りでも苛立ちでもなかった。ただ、どうしようもないほどの「好き」が詰まっていた。

彼はその場にしゃがみ込み、ヨルの膝に額を預けるようにして身を寄せた。肩がかすかに震えているのは、薬のせいだけじゃない。どれほど衝動に呑まれても、彼女を傷つけたくないという想いが、彼の中で凄まじくぶつかり合っていた。

「ヨルがどれだけ俺を信じてても……俺は、おまえの全てを壊せるほど、おまえのことが好きなんだ……」

声は苦しげだった。でもその苦しさすら、彼女をどれだけ大切に思っているかの証明になっていた。
そして彼は、ヨルの両手をそっと握る。その手のひらに、唇を落とすようにそっと口づけた。
まるで、唯一の理性を繋ぎ止めるための祈りのように。

「……だから今日は、これ以上触れたら俺、駄目になる。お願いだから、これ以上優しくしないでくれ」

その言葉と同時に、レオは顔を上げた。
そこには欲望を押し殺して、それでもどうしようもなくヨルを想っている男の、静かで、真剣な表情があった。

そんな姿を見て少し笑うと、ヨルはしゃがみ込んでレオと同じ高さに視線を合わせる。そして彼の限界を犯すように、そっと触れるだけのキスを落とした

「わかった」

レオの瞳がわずかに見開かれる。
そして、ほんの一瞬、呼吸が止まったように動けなくなる。

唇に残ったヨルの温度が、理性の境界線をじわじわと焦がしていく。
それでも──彼女のその一言が、最後の綱だった。

レオは、唇を噛みしめるようにして息を吐く。
喉の奥から漏れる低く苦しげな呼気は、まるで闘いを終えた後のようだった。

「……容赦ないな。心臓止まるかと思った」

冗談めかした声の中に、安堵と、ほんの少しの悔しさが滲んでいる。それでも、瞳は穏やかで、確かにヨルへの愛情で満たされていた。

彼は静かにヨルの髪に指を通し、その額にもう一度、自分からキスを落とす。
そこには何も混ざっていない。ただ、愛しさだけが滲んだぬくもりがあった。
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