服毒
41.『膝枕』
湯気の余韻がまだ肌に残る、心地よい疲労感に包まれながら、レオはソファに沈み込んでいた。
リビングの照明は少しだけ落とし、テレビの画面がぽつぽつと光を散らしている。内容は頭に入ってこない。ただ何かが動いて、何かが喋っている。そんなぼやけた感覚だけが、連勤明けの頭には丁度いい。
横を見ると、ヨルが静かにページをめくっていた。肘掛けに腕を乗せ、薄い表紙の文庫本を膝の上で支えている。
彼女の呼吸は穏やかで、ページをめくる指先も静かだ。あの本を読んでいる時の、少しだけ伏せた睫毛が好きだと、ふと思った。
温かいものを食べて、湯に浸かって──今、俺の一番安全な場所にいる。
そう思えるだけで、心が少しずつほどけていく。
欠伸が自然にこぼれた。
声には出さなかったけど、目尻が緩んで、喉の奥から息が漏れる。
その瞬間、隣で読書をやめる気配がした。ページを閉じる、柔らかな音。
「……レオ」
聞き慣れた声に、レオは顔を向ける。
ヨルは閉じた本を机に置くと、彼の顔を見て微笑んでいた。その、ふわっと静かに笑う時の目元は、どこか少しだけ悪戯っぽい。
「お仕事、頑張ったから。おいで」
そう言って、彼女は自分の腿にそっと手を置いた。細い指先が布越しにとんとんと、軽く叩く。
レオは一瞬、意味を図りかねたようにヨルの顔と膝を交互に見つめた。だが、彼女の仕草と柔らかく揺れる視線に全てを悟ると、静かに息を吐く。
「……膝枕か?」
困ったように問いながらも、声には既に抗えない甘さが滲んでいる。レオは立ち上がりヨルの元へとゆっくり歩み寄った。そして、その膝の上に躊躇いがちに頭を預けると、静かに目を閉じた。
「偶にはこういうのも悪くない、でしょ」
そう言いながら、彼女は優しく彼の髪に触れる。落ち着けるようにゆっくりと撫で付けながら、この時間を噛み締めるように小さく笑った。
頬に感じる柔らかさと温もり。
どこかまだ慣れない。けれど、心の深いところが、じんと満たされていく感覚がある。
「ああ。……悪くないどころか、ずっとこうしていたいくらいだ」
レオは瞼を閉じたまま、彼女の指が髪を梳く感触に静かに身を委ねる。言葉の端には、滲むような安堵と、彼女にだけ見せる弱さが宿っていた。少し肩の力が抜け、深く息を吐く。
「……おまえの手、落ち着くな」
警戒なく身を預ける彼の、ゆっくりと上下する胸の動きや吐かれる呼吸のひとつひとつ、閉じられた瞳、柔らかい髪の毛。その全てをヨルは愛おしそうに眺めていた。
レオはその視線に気づいたのか、そっと目を開ける。見上げた先にある彼女の眼差しが、ただ静かに自分を見つめていて、言葉にしなくても伝わるほどの優しさに満ちていた。
「……そんなに見られたら穴が開きそうだ」
静かな声でぼそりと呟きながら。けれど逃げるような素振りは見せない。むしろ、そのぬくもりに包まれることを、心から求めているようにそっと彼女の太腿に頬を寄せていた。
「珍しいから。少し嬉しくて」
髪を撫でていた手はゆっくりと頬を伝い、肩まで降りると今度はとんとんと叩き始める。
レオはその手の感触に小さく目を細めた。穏やかで、柔らかくて、まるで子どもの頃に夢で見たような安心感がそこにあった。
「……甘やかされすぎて、駄目になるかもしれないな」
レオは目を伏せながら、肩に落ちる彼女の指先の感触に静かに身を委ねる。けれど、口元はかすかに緩んでいて、安心しきったような吐息が、彼の胸から漏れた。
「駄目になったレオのことも、きっと好き」
レオの胸がふるりと揺れた。思わず、というように息が喉の奥でつかえて、それが小さな笑い声に変わる。
「……それはそれで困るな」
呟いた声には、照れ隠しの苦笑が混じっていたけれど──本心から否定するような色はない。むしろその言葉に、ほっとするような温かさがあった。
彼女の手が再び髪に戻って、今度はゆっくりと、梳くように動き出す。それに合わせるように、レオはもう一度目を閉じた。
「……ヨルとこうして静かに過ごせる時間が……一番落ち着く」
テレビの音も、外の音も、何もかもが遠ざかっていく。
聞こえるのは、彼女の呼吸と、撫でられる髪の音と、自分の心臓の鼓動だけ。
「連勤明けの褒美にしては、贅沢すぎるくらいだな……」
言葉を口にしてしまってから、少しだけ照れくさそうに眉を寄せる。
けれどそのまま、そっと彼女の膝に頬をすり寄せるようにして、小さく息をついた。
「...大好きだよ、レオ」
彼の言葉に優しく微笑むと心からの言葉を溢す。ヨルの指が、レオの額からこめかみ、耳の後ろへと、愛しげに滑っていく。
──眠れ 眠れ 星のこえ
銀の舟が 夢を運ぶ
ゆらり ゆらり 風のうた
忘れていいよ 夜の中
おやすみ 愛しい人よ
また 夢で 会えるから──
それは優しい子守唄。ヨルの口から奏でられる静かな歌声は優しく夢へと導くようで、不思議とレオの心に懐かしさを湧き起こす。
幼い頃に何度も耳にした旋律。母のぬくもりを思い出させる、穏やかで柔らかな声だった。
レオは目を開けることなく、まぶたの裏に浮かぶ記憶をなぞる。あたたかな膝の上、撫でられる髪、優しく響く歌──あの頃と、何も変わらないはずなのに。
「……この歌」
ぽつりと、かすれるような声がこぼれる。
息を吸い、そして、ゆっくりと目を開けて彼女を見上げる。
月明かりに照らされたヨルの横顔は、穏やかで、美しかった。
「……よく母さんが歌ってくれたんだ。俺と、妹を寝かしつける時。……こうして、頭を撫でながら」
瞳を細めながら、レオは昔のことを思い出すように言葉を継ぐ。
「だから俺も……真似してたんだ。……昔飼ってた猫に向かって、子どもの頃にさ」
口にしてから、ふと言葉を止めた。
どこかおかしくて、自分でも苦笑しながらも──胸の奥に広がるのは、確かな違和感だった。
「でも、なんでおまえがこの子守唄を……」
優しく撫でる手に、そっと自分の手を重ねながら、ゆっくりと上体を起こすレオ。
この歌はレオの母親が、自分の息子と娘のために作ったもの。一般的な子守唄ではなく、彼の家族しか知らない曲だったから。
レオは静かにヨルの目を見据えた。その瞳には驚きも、怒りもない。ただ、真実を求めるような穏やかでまっすぐな光だけがあった。
「子守唄...」
視線に気づくと驚いたように言葉を詰まらせるヨル。彼に触れていた手をそっと引くと、まるで自分自身でも気づいていなかったように瞳が揺れた。
それはヨルが知っているはずのないもの。何ひとつ記憶を持っていない彼女が、この歌を歌えるはずがなかった。
「分からない...。私にも」
その言葉に嘘はなかった。こんな満月の夜、どこかで耳にした幸せな歌。ただ口から溢れた、愛する人に向けた優しい子守唄だったから。
レオは彼女の言葉を黙って受け止めた。
疑うでも、責めるでもなく──ただ、じっと見つめる。揺れるヨルの瞳も、ふいに逸らされた視線も、その全てを抱きしめるように。
「……そうか」
彼はそう短く呟くと、そっと彼女の手をとって自分の胸元へと引き寄せる。
「なら、いい。……おまえが嘘ついてないのは、分かるから」
温もりを伝えるように、指先で彼女の手の甲をなぞる。どこか夢の中にいるような、曖昧で優しい仕草だった。
「歌のことは、……あとでまた考えればいい」
顔を上げて、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
眠たげで、でも確かな強さを宿す眼差しで。
「今は……おまえの声が聞ければ。……それで、十分だ」
そう言って、レオは少し照れくさそうに笑った。そしてゆっくりとまた彼女の膝に頭を預け、静かに目を閉じる。
「……もう一度聴かせてくれないか。ヨルの声、もっと……聴きたい」
彼に与えられる信頼と安心。もう一度預けられた彼の重みに僅かに手が震えた。
「...レオ」
私にどんな過去が眠っていたとしても、全て受け止めてくれるようなレオ。早まる鼓動を抑えるかのようにゆっくり呼吸を整えると、彼のためにヨルはもう一度、静かに歌い始めた。
──眠れ 眠れ 星のこえ
銀の舟が 夢を運ぶ
ゆらり ゆらり 風のうた
忘れていいよ 夜の中
おやすみ 愛しい人よ
また 夢で 会えるから──
レオはその歌に、ただ耳を澄ませていた。
彼女の声は、まるで全てを包み込むように柔らかい。
胸の奥に、ゆっくりとあたたかな何かが灯っていた。彼女が自分の記憶を持っていないこと、それでもこうして自分の心に触れ、癒してくれること。その事実が、言葉にならないほど嬉しかった。
「……ヨル」
そっと、彼女の名を呼ぶ。閉じた瞼の奥、溶けていきそうな眠気の中で、レオは手探りで彼女の指に触れると、そのまま優しく握りしめた。
「……ありがとう」
それは短いけれど、深く真実を含んだ言葉。
レオの手の中には、あたたかな彼女のぬくもりがある。
ゆっくりと、レオの呼吸はさらに落ち着いていき、やがて彼女の膝の上で眠りに落ちていく。
その顔は穏やかで、どこか幼さすら感じさせるような無防備さに満ちていた。
レオが眠りにつくと、そんな彼の姿を見て愛おしそうに深く息をつくヨル。押し寄せる不安を全て消してくれるような寝顔。
顔を上げると窓からさすのは、銀色に輝く月の光。それはどこか懐かしく、自身の記憶を隠しているベールのようにも見えていた。