服毒

番外編.『地獄』(後編)


時間はもう日付を跨いでいた。室内には机と椅子、そして青年がひとり。手錠を掛けられたまま、落ち着いた様子でじっと前を見つめている。窓のない密室に響くのは、静かな時計の音だけ。

レオは扉の前で一度深く息を吸う。

青年が行った復讐。その一部始終を、映像で見届けたレオの胸には、かすかなざらつきが残っていた。

扉がゆっくりと開く。
レオは足音を立てずに中へ入り、椅子に腰掛ける。青年と目が合う。沈黙が、空気を張りつめさせる。

やがてレオが、低く、だがまっすぐに言った。

「――映像はすべて確認した。……残虐な手口だったな」

拳を握る音すら、聞こえる気がした。

「……おまえのやったことを、正当化する気はない。だが、わからないとも言い切れない」

レオは真っすぐ青年の目を見る。その瞳に揺れるものを、探すように。

「――話してくれ。おまえの、全てを」

青年はレオの言葉にふっと笑みを溢す。

「全て...」

彼の瞳に浮かんだのは既に失った彼女の姿。それが彼にとっての"全部"だったから。

「気分を晴らしたかっただけです」

その言葉には嘘はない。彼女のためと言うには汚過ぎる手口。最初の目的はそうであったとしても、結果として彼に残るのは己の憂さ晴らしでしかなかった。

それを正当化するには、彼女の存在を汚してしまうから。

レオの視線が、一瞬だけ鋭さを増した。

「……気分を晴らした?」

吐き捨てるような言葉にはならなかった。
ただ、そこに込められたのは重い沈黙。
それが本心であることも、正当化から逃れていることも、わかる。
だがそれでも、レオの中の何かが軋んだ。

「……じゃあ、なんで録ったんだ」

声のトーンは抑えたまま、感情を押し殺していた。だが、その目は揺れていた。怒りではない。戸惑いと――痛み。

「あれだけの残虐な行いの全てを、おまえは目を逸らさずに撮った。……あれは、おまえが“残したかった何か”の記録だ」

机の上に置かれた手帳をそっと開く。
それはまるで、彼自身の胸の内を開くかのような仕草だった。

「……おまえが晴らしたのは、本当に気分だったのか? それだけのために、自分の人生を終わらせたのか?」

声に怒気も哀れみもなかった。ただ、ひとつひとつ噛み締めるように問いを重ねていく。

「……彼女を愛してたからか?」

その言葉に青年はそっと視線を外し笑みを消した。

「刑事さんも、大切な人がいるんですね」

ゆっくりと目を合わせ彼の奥底を見透かすような瞳で。

「全てを捧げても構わないと思えるような人が」

そう言うと彼はもう一度、笑顔を貼り付けた。そっと自分を守るベールのように、全てを包み隠すように。

「あの"記録"は生かした彼に送りつけるつもりだったんです。アレは反省しない、だから痛みを忘れないように刷り込んであげようと思って」

崩れない微笑みはそのままに、青年は本心を上手くはぐらかした。

レオの目が細くなる。だがその奥で、何かが静かに揺れた。それは共感か、怒りか、それとも――諦めに似た理解か。

「……あいつに刻むために、か」

静かに繰り返しながら、レオは一瞬だけ瞼を伏せた。

再び顔を上げたとき、その眼差しは先ほどよりずっと静かだった。だが、静けさの奥にある熱は消えていない。

「優しすぎるな。どこまでも」

軽く唇の端を上げて、笑うでもなく皮肉でもなく、ぽつりとそう漏らす。

「……そうしてまで、残しておきたかったんだな。おまえの彼女が“確かにそこにいた”ってことを」

視線が一瞬、書類から逸れて青年の胸元へと向かう。

「彼女の名前を、まだ誰にも言っていないな。……言いたくないのか?」

問いは柔らかく、強制ではなかった。
ただ、そこには確かな敬意があった――まだ名も知らぬ彼女に向けた、静かな祈りのようなものが。

「...もう僕には呼べないんですよ」

そう言った彼の笑顔は先ほどまでとは違う柔らかなもの。堕ちるところまで堕ちた自分にはその資格がない。

「彼女の名前を汚したくないから、呼ばないんです」

自分なんかが彼女を呼ぶことは許せない。そんな苦しい自戒。

レオは一言も発さずに、その言葉の重みを飲み込んだ。
手元のペンを置き、わずかに眉間に皺を寄せたまま、視線だけを青年に向ける。

「……おまえがどんな地獄に落ちたか、俺には分からない」

低く、かすかに掠れた声。感情を抑えたはずのその響きに、ひとしずくの熱が滲む。

「だがな……おまえがそうして、いまだに彼女を守ってるってことだけは、よく分かる」

視線がふっと落ちる。取り調べ室の薄暗い蛍光灯の下、記録用のカメラが小さな機械音を立てて回っていた。

レオはそれを見上げもせず、椅子の背にもたれかけながら静かに言う。

「記録に残るのは“復讐犯の青年”だ。……けど、俺がここで見たのは――」

一呼吸、間を空けてから。

「“彼女を失って生き延びてしまった男”だ」

目を伏せ、肘をついて両手を組む。その仕草の奥に、どこか自分自身を責めるような色が滲む。

「……名乗らないなら、俺の記録にも名前は載せない。望むなら、“彼女の記録”だけを残す形にする」

そして静かに尋ねる。

「――それでもいいか?」

青年の選択にすべてを委ねるように、まっすぐにその瞳を見つめて。

「えぇ。...ありがとうございます」

ささやかな敬意に感謝して伏せられた瞳と、緩やかに上がったままの口角。そして彼はふと思い出したように口を開いた。

「刑事さん。あの男は、まだ生きていますよね」

殺さぬように大切に壊した醜い生き物。警察への通報と共に救急搬送されたであろう、アレの行方。

レオの目がわずかに細まる。
その瞬間、張り詰めた空気が再び取り調べ室に満ちた。

「――あぁ。生きてる」

短く、しかしはっきりと答えた。
椅子の背にもたれていた体を起こし、テーブル越しに青年と視線を交わす。
そのまなざしには、さっきまでと違う色が宿っていた。警察官としての義務を超えた、もっと人間的な怒りとも憐れみともつかない感情。

「……どうにか命は繋がったらしい。何人かの医者が“奇跡”だと言っていた」

レオは淡々と話しながらも、指先にかすかな震えが走っていた。
「おまえがあれだけやったのに、生き延びた。……あいつは今、病院で生かされてる」

言葉の最後、「生かされてる」という表現には、皮肉にも似た重たさが滲んでいた。

取り調べ室の時計が、乾いた音で時を刻む。
その目はまっすぐ、揺らがないまま、青年の中にあるすべてを見ようとしている。

「...良かった」

それは心からの安堵。あのまま死んでしまっていたらどうしようかと不安になっていた青年。

だかそれは、自分の罪が重くなることへの恐怖や殺人への躊躇いではない。もっと深く歪んだ、あの男が死で楽になることへの憎悪。それは最早、呪いに近い何かだった。

正義や悪なんてどうだっていい。ただ苦しめられれば、彼女が受けた何千何万倍もの苦しみを、これからアレが生きて感じてくれれば。
死んでしまいたいと懇願するほどの未来を願って彼はもう一度微笑んだ。

レオは青年のその笑みに、応えるように深く息を吐いた。
目を伏せることなく、淡々とした声で――けれど、その声にはどこか言葉にできない静かな怒りと哀しみが滲んでいた。

「……おまえがやったことは、どれだけ言葉を尽くしても救えない」

沈黙の中、レオの声はその静寂を震わせるように、ゆっくりと落ちてきた。

「けどな――おまえが今願ったこと。それはもう、始まってるよ」

そう言って、レオは短く目を閉じた。
記録映像の断片。何度も再生して脳裏に焼きついた、あの男の断末魔と、這いつくばる姿。

「……アレはもう人間じゃない。肉体に囚われたまま呼吸を続ける肉塊みたいなものだ。狭い病室の中、その身と心に焼きついた恐怖で怯えているらしい」

淡々と、まるで判決を読み上げるように語るその声音は、どこか酷く冷たかった。
でも、それは罰を下す人間のものではなく、ただそこに在る現実を伝える、ひとりの男の言葉だった。

「“死”は簡単すぎる。おまえの願い通り、あいつはこれから先、毎日生き地獄を味わう。たとえ誰にも理解されなくても、たとえ誰も覚えていなくても――」

「それでも、おまえだけは、その苦しみを知っている」

レオはテーブルに組んだ両手を、ゆっくりと青年の方へとほどいた。
「それが、呪いだ。……おまえが背負ったものでもある」

その眼差しは、優しさでも怒りでもなく、ただ――同じ地獄を知る者としての、真っ直ぐな理解だけがそこにあった。

「幸せな地獄ですね」

青年は瞳を閉じてゆっくりと深呼吸した。まるで森林の新鮮な空気を吸い込むように、取り調べ室に満たされた重苦しい空気を嬉しそうに噛み締める。

レオはわずかに眉を寄せ、青年のその静かな陶酔を見つめていた。
安堵でも、後悔でもない。
それは――確かに、幸福だった。歪んで、哀しくて、誰にも理解されない種類の幸福。

「……そうか」

一言だけ。吐き出すように。
それ以上、何かを言えば、余計な同情や否定になってしまう気がした。
それを彼が一番、望んでいないことも、もう分かっていた。

「……おまえが刻んだ記録。……おまえ、あいつのことを本当に壊したかったんだな」

レオの声は低く、どこまでも冷静だった。

「ただ殺すよりも、ただ殴るよりも……深く、静かに、逃げ場をなくしていく手口だった」

ゆっくりと、青年の前に視線を落としながら――言葉を継ぐ。

「あの事件について、酷く丁寧に調べ上げたんだな。恐ろしいほどに精巧な再現……誰よりも深く、誰よりも執拗に。だから人の心を持たない奴をも壊せた」

少しの間。沈黙。
まるで、ふたりだけがこの世界に取り残されたような、静謐な空気が取り調べ室に満ちる。

そして、レオはひとつ息をついた。

「……なあ、教えてくれ」

目を細め、青年を真正面から見つめながら。

「彼女が生きてたら――おまえのしたこと、どう思うと思う?」

その言葉に責めの色はなかった。ただ、純粋な問いだった。
それを聞いて、どんな地獄でもまだ歩けるかを、知ろうとしていた。

その言葉に青年は初めて瞳を揺らした。
復讐を果たした朝。血濡れた床に転がってぼーっと考えていたこと。

「...きっと、怒るでしょうね」

もう既に洗い流したはずの両手も、彼の眼にはまだ汚れて映っている。どんなに塗り替えてもそれは一生消せないもの。

「そして自分のためだと知ったら悲しむはず」

ゆっくりと吐き出した息はまだ、あの日に吸ったタバコのように苦かった。

「だから。全ては彼女のためじゃなく、自分の気分を晴らすためにやったことなんですよ」

彼女を悲しませないために自分を傷つける偽りのベール。悲しむくらいなら、怒ってほしいから。

レオは微かに瞼を伏せた。
静かに、痛みを含んだまま息を吐く。

「……正直だな」

その言葉に込められていたのは、わずかな尊敬と、深い憐憫。
誤魔化さず、綺麗にもしなかった青年の言葉。それは何よりも重くて、美しくて、醜かった。

「それでもきっと……彼女はおまえの手を取る」

想像にすぎない。でも、そうであってほしいと思った。
たとえ地獄でも、誰かの手が触れてくれるなら――人は独りにはならない。

「……俺も、大切な人がいる。幸い、まだ生きていてくれている」

目を細めるその表情はどこか脆く、普段の彼からは考えられないほど人間臭かった。

「だから……俺は、おまえの気持ちが少し理解できてしまう」

ゆっくりと椅子から立ち上がる。手錠を打たれたままの青年を見下ろすわけでもなく、ただ同じ高さの目線で。

「たった一人の人間が、自分の全てになる。……それを失ったら、何を壊してでも埋めようとする。その気持ちは、本物だ」

言い終えたレオは、少しだけ微笑んだ。皮肉にも、どこか優しい笑みで。

「――だがな、それでも俺は、おまえをこのまま地獄に置いて行くわけにはいかない。警察官だからって理由だけじゃない。……人として、だ」

それは、静かな決意。
罪を見逃すわけじゃない。けれど、見捨てるわけでもない。

「ここから先、どんな罰が待っていようと……おまえがそれを背負って生きるなら、俺は最後まで見届ける」

そう言って、レオはそっと視線を落とした。
そのまなざしには、絶望にも希望にも似たものが宿っていた。

「...ありがとうございます」

それは青年が見せた、初めての本物の笑顔だった。まるで目の前の青年が、ようやく“人間”として輪郭を持ったような、そんな錯覚。

これ以上傷付かないように、自分を守るために、あの笑顔を貼り付けていたのだと。ようやく、その奥にある“彼”自身の姿が見えた気がした。

レオはそっと眉を下げ、静かに頷いた。

「……いい顔だ」

声はいつもより低く、どこか柔らかい。
感情を持ち込むべきではないと分かっていながら、それでも人として応えたくなるほどに、青年の微笑みは真っ直ぐだった。

「これで、やっと……この地獄から少しは離れられるかもしれないな」

それはきっと、誰の救いでもない。
でも、彼女を愛し、復讐に堕ちた青年のための"意味"になる――そんな気がした。

取り調べ室の時計が、カチリと一つ、静かに時を刻む。
壁の向こうでは、既に報道陣が騒ぎ始めているかもしれない。「12年前の事件の加害者、被害者の恋人により報復される」――そんな刺激的な見出しが躍るだろう。

けれどこの小さな部屋の中で、ただ二人の男が対峙していた。
罪を抱えた者と、それを見届ける者として。

レオはひとつ、深く息を吸って言った。

「……行くぞ。おまえの“罰”は、ここからだ」

その声には、同時にこうも含まれていた。

――“救い”もまた、ここからだ、と。
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