服毒
45.『約束』(4)
祭りの終わり、灯りが遠くに滲む。
ざわついた通りを抜け、細い坂道を下っていくと、途端に空気が変わった。草の匂いが強くなる。浴衣の裾が風に揺れて、足元に細く影を落とした。
街灯の明かりはまばらで、頭上には夜がひらけていた。耳に届くのは、草むらで鳴く虫の声と、時折聞こえる遠くの笑い声だけ。
「……静かだな」
思わず口をついた言葉は、自分でも気づかないほど緩やかだった。
隣を歩くヨルの顔は、浴衣の淡い色に照らされて柔らかい。手を繋いでいるわけでも、腕を組んでいるわけでもない。ただ並んで歩いているだけなのに、肩先がふと触れそうな距離が、やけに心地いい。
草むらを抜ける風が、ふたりの間をすり抜けていった。夏の終わりの、優しい風だった。
「そうだね」
祭りの喧騒を離れた静かな世界に、ヨルは穏やかな息を吐く。
「……今日すごく楽しかった」
少し疲れた様子も見えるが、言葉通り楽しんでいたのが窺える微笑みを浮かべていた。
並んで歩くふたりの背中に、夏の空気が漂う。
「連れてきてくれてありがとう、レオ」
レオは歩みを緩めて、ふと足を止めた。
「……礼を言うのは俺の方だ」
まっすぐな声でそう言ったあと、彼女の浴衣の裾が風に揺れるのを、静かに見つめた。
夜風に乗せて、胸の奥からぽつりと零れ落ちた本音だった。
「花火、一緒に見られて良かった」
花火の残光も提灯の灯りも消えた夜道で、月明かりだけが彼女の睫毛を静かに縁取っていた。
「……また来年も、一緒に来よう」
その声には、未来を願うような、どこか確信に近い響きがあった。
「……仕事がお休みになったらね」
新たに増えた約束に嬉しそうに微笑んだが、口から出たのは少し意地悪な返答だった。だがそれでも、その時隣にいるのは既に決まったことのような口ぶりのヨル。
レオは何かを言いかけたが、柔らかな表情でふと空を仰いで口を閉じた。
花火のあとに訪れた静寂。澄んだ夜空には、さっきまでの喧騒が嘘のように、星々がくっきりと浮かんでいた。そしてその漆黒の空には、三つの星がくっきりと浮かんでいる。
「あれ、夏の大三角形だな」
レオは静かに指を伸ばした。
「ベガにアルタイル……そしてデネブ」
言葉少なに指し示したその三つの星は、まるで今夜のふたりを祝福するように、まっすぐ夜空に瞬いていた。
「意外だね。レオ、星座わかるんだ」
ヨルは指し示された星ではなく、レオの横顔を見つめている。
「……親父が好きだったんだ。星とか空とか。夏になると、よく一緒に見てた」
横顔に視線を感じ、ほんの一瞬だけ目線を逸らしながら、レオは不器用に言葉を継いだ。
「あれが織姫で。あれが彦星。年に一度だけ会える星だ、って」
ふっと微笑んで、ヨルの方を向く。
「……俺は、そんなの耐えられないな。年に一度なんて、足りるわけがない」
緩い風に吹かれながら、彼女の髪が肩先をなぞる。
レオはそっと、自分の影とヨルの影が重なるのを見つめ、ぽつりと落とすように囁いた。
「ずっと、隣にいてほしい」
真っ直ぐに向けられた静かな言葉。その声に応えるように、ヨルはレオの指先に触れると優しく絡め、ゆっくりと引き寄せた。
「……私が織姫なら、どんな手を使っても必ず会いに行くよ。レオが一人にならないように」
細められた柔らかく冷たい瞳。天の川など彼女が望めば枯れてしまいそうに見えた。夜空に浮かぶ夏の大三角よりも強く、静かで、そして狂おしいほどの意思が宿っている。
「……ヨルのそういう所が好きだ」
愛しさが滲んだ声。彼女の全てを愛する者の瞳。
「俺も、きっと……おまえがどこにいたって迎えに行く」
彼の手もまたヨルの手を握り返す。指先の温もりが伝わり、夜の涼しさの中で心の熱がじわりと広がっていく。視線を重ねたまま、どこまでも本気の冗談をこぼした。
ヨルは彼の言葉に嬉しそうに口角を上げると、ほんの少し視線を逸らして彼の後ろに輝く星を見据えた。
「ねぇ、レオ……」
星たちが静かに瞬き続けている。
「ベガとアルタイルに注目されがちだけど、私はデネブの話も好きだよ」
夏の大三角形のひとつであり、白鳥座の尾である『デネブ』。
「白鳥座、ゼウスが白鳥に姿を変えて好きな人に会いに行ったんだよね……」
愛や犠牲、姿を変えても愛する人に会いたいという願いの象徴。
ヨルはレオの瞳に視線を戻すと一歩、距離を詰めた。
「どんな姿でも、会いたかったんだって」
レオはその言葉に、ゆっくりとまばたきをひとつ落とした。
「……どんな姿でも、か」
その言葉の余韻をなぞるように、低く呟く。そして、星空から視線を落とし、目の前のヨルを見つめる。
「……おまえが誰で、どこから来たのか。まだ全部わかってるわけじゃない」
そう続けながらも、その声音にはためらいも迷いもなかった。確かなものだけを選び取るように、静かで真っ直ぐな言葉。
「でも、たとえどんな姿でも。おまえがヨルなら……俺はそれだけでいい」
そっと手を伸ばして、ヨルの髪にかかる風を指先でなぞる。夜風が吹いても、星が瞬いても、彼の視線は揺れずにそこだけを見据えていた。
「……レオ、私……」
彼女はそこで何か言葉を飲んだ。その先にはまだ覚悟が足りないとでも言うように。そして何かを隠すように笑みを浮かべた。
「きみと一緒にいられて幸せ」
そして髪を撫でる彼の手に触れた。そして笑顔のまま繋いだ手を引いて歩き出す。
「はやく、帰ろ……」
振り返ったその表情は穏やかで、でも何かを抱え込むように揺れていた。二人の場所に、何も考えなくて良い、二人だけの世界に帰ろうと。
レオはその笑顔に、どこか胸の奥がかすかに疼くのを感じていた。掴まれた手の温もり。そこに込められた優しさと、ほんの微かな、言葉にならない何か。
「……ああ」
短く、けれど柔らかい声で応えながら、彼もまた歩き出す。繋いだ手を解かないまま、夜道をふたり、ゆっくりと並んでしっかりと握り直す。指の間に確かに存在する体温が、彼の胸の奥をじんわりと満たしていく。
虫の声と、遠くで鳴く祭囃子の余韻だけが静かに耳に残っていた。
「おまえが幸せなら、それでいい」
ぽつりと落ちたその言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ隣を歩く彼女にだけ向けたものだった。
全部聞きたいと思いながらも、彼女が自分から伝えてくれるのを待つように。星明かりに照らされたレオの横顔は、どこまでも真剣で――それでも、彼女の歩調に合わせるように優しかった。
ふたりの影が、ゆらりと寄り添い、そして重なった。夏の夜の中、星の瞬きと風の音だけが、静かにふたりを見送っていた。