服毒
46.『接吻』
薄暗いリビングルーム。
ランプの小さな光が棚の隙間からこぼれ、甘やかな香りが微かに漂う静謐な空間。
窓の外では、しとしとと降り続く雨音が、規則的なリズムで世界を包んでいた。
ソファの上で、ふたりは向かい合っていた。
ヨルの細い指先が、無言のままレオの頬に触れる。その仕草にレオの目が細められ、静かに――引き寄せるように唇が重なった。
最初はただ、そっと。
でも、それだけでは足りなかった。
ヨルの呼吸がかすかに漏れると、レオの手が彼女の頬に添えられる。
そのまま、唇の温度を確かめるように、舌先で境界をなぞる。
「……ヨル」
名前を呼ぶ声は、濡れた吐息のように甘く低い。
その音に応えるように、ヨルが目を閉じる。すぐにレオの舌が、遠慮なく彼女の口内に滑り込んできた。
舌と舌が絡まる。
音を立てずにはいられないほど深く、濃く、まるで味わうように。
「ん……」
ヨルの声が小さく漏れた瞬間、レオの体がわずかに震えた。
その声が、彼の奥底の執着を刺激する。
もっと欲しい。もっと、感じてほしい。
彼の舌が、ヨルの上顎をゆっくりなぞる。
濡れた音が、誰もいない空間に微かに響いた。
ヨルの喉が、わずかに上下する。
飲み込まれる感覚。
空気すら、レオの呼吸と混ざってしまいそうなほど近くて――
「……っ」
唇が離れる音すらも、淫靡に感じられるほど。
だが、離れていたのはほんの数秒だけだった。
レオは、すぐにもう一度唇を重ねる。
今度は、唾液が繋がる音がはっきりと聞こえた。
ヨルの指先が、レオのシャツを握っている。
静かに、けれど確かに、求める手。
その小さな動きが、レオの理性をじわじわと蝕んでいく。だからこそ、レオは今はまだ触れない。
その代わり、彼は息を、熱を、甘い言葉を彼女の唇へ注ぎ込む。
「おまえの声が中で響くのが……たまらない」
触れるのは、唇と舌と声だけ。
「……やめ……」
呂律の回らないまま、力の抜けた抵抗を示す。
「……ちゃんと、聞かせてくれ。ここで」
囁きながら、再び口付ける。
今度は少し乱暴に、唇を奪うように。
舌が侵入するタイミングも、わざとらしいほど焦らす。
ヨルの口の奥を、舌先で押し広げるように這わせる。
「……ん、ぁ……っ」
また漏れた声。
掠れた息のような囁きが、濡れた舌の動きにかき乱されて崩れていく。
レオは、そんな彼女の唇を一度噛んだ。
強くはないが、確かな痛みを残すような噛み方。
甘さに滲む支配欲の滲む味。
「……おまえ、こんな顔して……」
彼の目が潤んでいた。
欲望と愛しさで、理性と本能の境界が曖昧になっていく。
「……もう少しだけ」
そう言って、レオはヨルの下唇をそっと舐めた。名残惜しそうに、丁寧に、唾液ごと味わうように。
彼女の呼吸と、鼓動と、熱とが、レオの口内に全部流れ込んでくるようだった。
「……レオ」
その囁きが、唇のすぐ上で降る。
声と息が混ざった甘い残響に、ヨルは目を伏せたまま、静かに、軽く口付けた。
「……かわいいな」
レオの声が低く漏れる。
指先がそっとヨルの頬に触れ、親指が滑らかに唇の端をなぞる。濡れた吐息がこぼれた口元。
呼吸も触れも奪うような沈黙の中で、その指先は決して強く押し込んだわけではない。けれど、「触れてもいいか」などという問いすら交わさず、まるで“当たり前のように”彼女の唇をなぞった。
ヨルは、目を逸らさなかった。
ただ、その微かに開いた唇から熱を逃がすように、小さな息を漏らして。
レオの指先が、ゆっくりと唇の隙間をなぞる。
やわらかく、温かく、唇の湿り気に触れながら――親指がそっと唇の隙間を押し開ける。そのまま、第一関節まで、指を滑らせるように咥えさせた。
「……ん」
抗うでも、拒むでもない、けれど自らは決して望まない場所。“口”という絶対領域を、彼女は確かに自分の意志で許した。
レオの喉が鳴る。
ヨルが彼の指を、わずかに震えながら咥えた瞬間。それは唇を預けるキスよりも、ずっと深く、私的で、濃密な感情の交差だった。
舌が、自然とその指に触れる。
ゆっくりと、まるで舌の代わりに探るように、湿った熱が指先に絡みつく。
レオが目を細めて見つめていることに気づき、ヨルの背筋がすこし震えた。
「……咥えるの、うまいな」
レオの低い声が、耳のすぐそばで囁く。
指先に感じる、舌の湿度。柔らかくて、温かくて、そして何より――そこにヨルがいるという実感。
ヨルの頬に熱が走る。
だけど、レオは彼女の反応などお構いなしに、抜くでもなく、押し込むでもなく――ただ、咥えたままを味わわせるように、そっと、親指を舌の上に滑らせた。
親指の腹で、ヨルの舌を優しく撫でる。
先端でつつくたびに、彼女の喉が震える。
堪えるように目を閉じ、眉根を寄せたヨルの表情に笑みを溢すレオ。
舌の動きに沿って、ゆっくりと円を描く。
ヨルの呼吸が浅くなり、まぶたがふるふると揺れる。ぬめる感触が絡みつき、喉奥に近づくにつれて吐息が漏れる。
「…っ、ん……」
その音に、レオの理性がひび割れる。
だが同時に、その小さな喘ぎを聞き逃したくなくて、あえて深くは触れない。
ただ唇に、舌に、甘く這うような指の動き。レオの熱が、味としてヨルに伝わってくる。ゆっくりと、丁寧に、何度も舌先をなぞるように。
「おまえの口……小さくて、柔らかくて」
親指をゆっくりと掻き混ぜながら、レオは唇のすぐ脇へ顔を寄せた。
もう片方の手で頬を支え、わずかに上を向かせる。
舌先の反応、唇の閉じ方、内側の柔らかさ――すべてを確かめるように、彼女の口内を愛撫していた。
「ヨルの中……こんなにあたたかいんだな」
熱っぽい声で、吐息を交えて言う。
その言葉に、ヨルの肩がぴくりと跳ねる。
口に入れられたまま、何も言えずに、ただ指先を受け入れている。口内にあるのは、レオの体温。舌に触れるのは、彼の皮膚と、彼の鼓動。
レオの感触を“味わって”いるという事実が、ヨルの理性をじわじわと溶かしていく。
指の腹が上顎に触れ、ヨルの身体がぴくりと震える。瞳が潤み、視線がレオを捉えきれなくなっていた。
「可愛い声、たくさん聞きたい……」
囁きと共に、レオの唇がヨルの耳朶に触れる。
舌先が一度、ぬるく這った。うっすらと漏れる吐息が、レオの指先を濡らす。
「喉の奥まで触れたら、どんな顔になるんだろうな」
その言葉に、ヨルがぴくりと眉を寄せた。口の中でレオの指が、わずかに動く。
「…んぁ、っ、……」
舌足らずな声。息が漏れるたび、指の間に唾液が流れ落ちそうになる。
けれどレオは、何かを試すように、その指を一度ゆっくりと引き抜いた。唇から離れていくその瞬間、うっすらと銀の糸が引き――ヨルは、目を伏せたまま、ぼんやりとそれを見送った。
レオは舌を這わせるように、唇の端から溢れかけた唾液を拭い取った。
「……味がする。おまえの、」
その囁きに、ヨルの意識が真っ白に染まりかける。
「レオ、……っ、……やめ、……」
懇願に近い声。けれどその中には、どこか快楽に酔った甘さが混ざっていた。
レオは、そっと彼女の口元に指を戻し、
ほんの少しだけ、また唇の中へと滑り込ませた。
「……もっと欲しい」
親指の腹が舌の上を撫でる。もう抵抗はなかった。ヨルは目を閉じ、口を開いたまま、唾液の糸がレオの指に絡むのを感じていた。
レオへと主導権を渡した。
“この人だけ”に、自分の一番深い場所を――触れさせることを許した。
呼吸が乱れていることにも気づかない。
焦点の合わないまま、頬が赤く染まり、レオの声すら聞き流してしまうほど、彼女は“内側”まで触れられていた。
「……ヨル」
レオが名を呼ぶと、ヨルは少し遅れて瞳を上げた。
その視線に宿っていたのは、怒りでも恥じらいでもない。ただ、圧倒的な無防備と、深く甘い、「信頼」だった。