服毒

47.『余韻』


レオは、かすかに瞼を持ち上げた。
まだ僅かに残る熱が、ゆるやかに部屋の空気を満たしている。
時計を見れば、まだ午前の早い時間。外は静かで、まるでこの場所だけが時間から切り離されたようだった。

ヨルの体温がすぐ隣にある。
彼女はレオの胸に触れるように寄り添い、肩口に顔をうずめていた。
呼吸は穏やかで、腕の中で眠っているように見える――けれど、どこか様子が違う。

熱が、まだ抜けていない。
頬は微かに赤く、睫毛が時折ぴくりと震えている。

レオは静かに自分のシャツを彼女の肩にそっとかけた。
無言のまま、指先でヨルの髪を撫でる。しっとりとした手触り。彼女の香りが微かに残るベッドシーツと混ざって、息を吸うだけで胸が苦しくなる。

「……起きてるんだろ」

小さな声で呟くと、腕の中の彼女が、ぴくりと反応した気がした。
レオはゆっくりと、彼女の額に唇を落とす。

「……ヨル」

まるで照れ隠しのような低い囁き。
でも、その手は彼女を離そうとはせず、むしろ抱く力を強めていた。

「......今日は少し、意地悪だった」

少しだけ抗議するように呟いたヨル。だが、その声音はどこか甘えていて、すこし潤んだ瞳と、乱れた吐息がまだ頬に残っている。

レオは、彼女の言葉に短く息を吐いて笑った。
だが笑みは微かに崩れて、どこか苦しげにも見える。

「……ごめん」

小さく、けれど真摯にそう言って、もう一度ヨルの額に唇を寄せた。まぶたの際に、そっと落とすような、深くも優しいキス。

「……おまえを見てると、余裕がなくなるんだ」

その声はかすれていて、どこか頼りなく、夜の間に削られた感情の残滓をまだ抱えているようだった。

彼女の頬を親指でそっと撫でる。
その肌の熱に触れた瞬間、レオの喉がかすかに鳴る。

「無理させてないか、って……ずっと気になってた」

言葉にするたび、彼の眼差しは柔らかく濁っていく。
罪悪感と、愛しさと、そして触れてしまった幸福の名残が全部混ざったまま、レオはそのまま、彼女を静かに見つめ続けた。

「無理は、してない。……レオはいつも最後まで優しいから」

頬を撫でられるたびに心地良さそうにゆっくりと瞬きをするヨル。決して乱暴に触れることはなく、丁寧に、大切にしてくれるレオ。
だが彼にも意地悪な面はある。

「……でも呼吸くらいさせて、きみで溺れそうだった」

少しだけ視線を逸らし、何度も重ねた唇を思い返す。
レオはヨルのその言葉に、目を細めた。
まるで苦笑を飲み込むように、喉の奥で息を詰める。

「……それは、お互いさまだ」

そう呟いた声はかすれていて、ほんの少し熱が滲んでいた。視線を逸らす彼女を、レオはゆっくりと腕の中に引き戻す。乱さぬよう、でも逃さぬように、そっと包み込むように。

「おまえが俺に、どれだけ我慢させてるか……分かっていないだろ」

額を寄せたまま、ヨルの瞳に視線を落とす。
先ほどまで火照っていた体温とは違う、静かな熱がそこにあった。

「俺で溺れたまま、抜け出せなくなればいい」

まるで独り言のように囁いたあと、唇が触れる。軽いはずなのに、それは深く心を揺らす口付けだった。

「……おまえの全てが欲しい」

その声は夜の名残を抱いていた。
レオの目は真っ直ぐで、けれどどこか、焦がれるように熱を帯びている。

「あんなに触れたのに、まだ足りないの?」

瞳を細めて悪戯っ子を嗜めるように言うヨル。だが言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな声色だった。

レオの唇が、ゆるく弧を描いた。
まるで試されているとわかっていて、それでも抗えない顔。

「……そうだな。足りないかもしれない」

囁くような低音。
けれど、その目は冗談では済ませない熱を秘めている。

ヨルの髪に触れ、頬を撫で、指先が鎖骨のあたりに触れかけて――でもレオはそこで動きを止めた。
触れたいのに、触れられない。
愛しさと葛藤がせめぎ合っているようだった。

「……おまえが欲しくて、どうしようもない」

言葉にしてしまったあと、レオは自分でも少し眉をひそめる。それは“溺れている”のが彼自身であることの、無自覚な告白だった。

「……どこまで許されるか、いまだにわからないんだよ。ヨル」

重ねた時間も、言葉も、夜も越えて、
まだ彼は「彼女を壊さずに愛せるか」を悩んでいる。

そしてその不器用な真剣さこそが、彼の執着の証だった。

「どこまでも許してる」

ヨルは動きを止めた彼の手を取ると、触れようとしていた場所へ優しく導く。恐れることはないと言うように。

「乱暴にされたって、きみになら怒らない」

レオの瞳がわずかに揺れた。
指先に伝わる彼女の熱。導かれるままに触れた場所は、まだ微かに熱を宿していて――その優しさが、逆に胸を締めつけた。

「……そんなこと言うな」

声は低く震えていた。
甘さと怒りと、自分自身への苛立ちがないまぜになっている。

「それがどれだけ危うい言葉か、わかっているのか」

そう言いながらも、ヨルの手を振り払うことはしなかった。むしろ、握り返す手は強く、確かで、求めるように熱を帯びていた。

「俺は、おまえに甘えてる。ずっと……」

乱暴にしないことで守ってきた理性は、今や彼女の言葉で簡単に崩れそうになっていた。

レオは静かに顔を近づけ、彼女の肩に唇を落とした。それは強くも優しくもなく、ただ祈るような誠実なものだった。

「それでも壊さないようにするから。……ちゃんと、愛してるって伝わるように」

彼はどこまでも優しい。心底大切にしてもらえているということが、彼の触れ方ひとつひとつで分かるほどに。痛くないように、苦しくないように、最後まで全部。

「レオ」

優しく名前を呼び、肩に唇を落とす彼の髪の毛を優しく撫で付ける。大丈夫だと伝えるようにそっと。

ヨルの声が静かな部屋の空気を震わせた。
名前を呼ばれた瞬間、レオの動きがふっと緩む。彼女の声は、いつだって彼の核心に触れてくる――やわらかく、でも逃がさない音で。

撫でられる髪の感触に、レオはまぶたを閉じる。自分がどれだけ甘えているかを実感するたび、罪悪感と幸福が同時に押し寄せてくる。

「……こんなふうにされると、もう駄目だ」

小さく、低く漏れるような声。
それは威圧でも逞しさでもなく、“彼だけの脆さ”だった。

彼は肩に顔を埋めたまま、ヨルの胸に額を預ける。体を預けるようにして、感情をも預けてくる彼に、どんな言葉より強い信頼と執着が滲んでいた。

「……本気で、全部委ねてしまいそうだ」

それは警告でも、揺さぶりでもなかった。
まるで、愛を告げるみたいに。まるで、これから始まる全てに「信じてもいいのか」と問うように。

レオは、ヨルの体温に縋るように寄り添った。

ヨルは何も答えない。だがその代わりにレオの顔をあげて額にキスを落とした。続けて瞼、鼻先、頬、そして唇に。

「大丈夫」

そう溢してもう一度、今度は深く口付けをして。彼女は離れる間際、彼の唇を噛んだ。血は滲んだりしないが、甘噛みではなく痛みをわざと残すように。

「……我慢してるのはきみだけじゃない」

レオの目が見開かれ、すぐにまた細められる。
ヨルのひとつひとつのキスが、余韻のように肌に残っていて、最後に残されたその痛みが――理性をわずかに軋ませた。

「……そんな声で、そんなこと言うなよ」

声は震えず、けれど低く押し殺されたまま。
彼の中で何かが静かに、確実に、限界を迎えていく音がする。

唇に残ったヨルの熱に、そっと舌で触れる。
痛みは鋭くはない。だが確かに、“印”のようにそこにあった。それが、何よりの返答のようで――レオは息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「……じゃあ、同じだけ、全部晒せ」

彼の手が、彼女の背中に回る。もうためらいはなかった。
触れる手つきはまだ優しく、けれど決して引かない。逃がさないと決めた意志が、動きに、体温に、言葉に滲んでいる。

「俺だけが我慢してるんじゃないって、おまえが言うなら――」

瞳が真っ直ぐにヨルを射抜く。

「今度は、おまえが俺に全部見せろよ。甘えて、縋って、全部」

そして、かすかに微笑んだ。

「……壊してほしいなら、ちゃんと壊してやるから」

その言葉にほんの少し嬉しそうな表情をするが、ヨルの顔にはそれと同時に悪戯な笑みも浮かぶ。シーツが擦れる音を立てながら、わざとらしく彼の耳元に寄ると揶揄うような声で言った。

「もう元気になったの?」

レオは瞬間、喉の奥で笑った。
声にならない、呆れと高揚の混じった吐息。
ヨルの耳元にかかるその熱に、肩が僅かに震える。

「……おまえのせいだろ」

低く、意図的に抑えた声が、耳に触れる距離で返される。耳たぶにすら触れない、けれど確実に鼓膜を揺らすような声色。

「こんな朝から、どれだけ俺を試す気なんだ」

言いながら、レオの指先がそっとヨルの腰へ触れる。明確な“意志”をもって。

「……そんな台詞言っていいのか?」

彼女の意地悪に対する、静かな反撃。
声は穏やかなのに、奥底にはどうしようもない熱がうねっていた。

レオの視線が、真っ直ぐにヨルを射抜いていた。

「レオ、今日お仕事あるでしょ」

もうすぐ日が昇る。昨夜もそれが理由で止めていたはずなのに、気づけばまた互いに募らせる熱に苦笑してしまう。

「遅刻しちゃうよ」

レオの目元がわずかに鋭くなった。

「……今さら遅い」

けれど怒っているわけではない。
むしろ、押し込めきれない笑みがその輪郭をゆるめている。

「止められるわけないだろ、こんなの」

低く掠れた声で呟きながら、レオはヨルの額にキスを落とした。
理性はまだ辛うじて繋ぎ止めていたけれど、
彼の目は明らかに“今だけは言うことを聞きたくない”と訴えている。

「……あと10分だけでいいから。もう少し、こうしててくれ」

そう言って、彼女の背に回した腕をさらに引き寄せる。言い訳のような言葉。でも、それが本音だった。

「ちゃんと行くから。ちゃんと真面目に仕事するから……」

その声は、夜の続きを惜しむようでもあり、
それ以上に、今日を生きるための力をくれと願うようでもあった。

互いの体温と匂いが混ざり合った空間。抱き寄せる腕に身を任せ、幸せを噛み締めるように息を吸い込むヨル。

「好きだよ、レオ」

レオの腕が、ぴくりと反応する。
彼女の声が、体の芯まで染み込むように届いた。たった一言。それだけなのに、心臓が暴れるほど強く打つ。

「……もう一度言ってくれ」

低くて、どこかせつない声だった。
どんなに聞いても足りない。
何度でも欲しくなるほど、彼にとってその言葉は――祈りのようだった。

「ヨルにそう言われると……なんでもできる気がする」

ヨルの髪に顔を埋めたまま、しがみつくように抱きしめる。
彼女を手放したくない。けれど、それでも現実は迫っている。

「……この部屋から、一歩も出たくない」

冗談のように聞こえたが、レオの声に嘘はなかった。本当にそう願ってしまうほど、彼にとって今この瞬間が――かけがえのないものだった。

「レオのことが好き」

彼の要求に応えるようにもう一度伝えると、レオからそっと身体を離した。カーテンの隙間から日が差し始めている。柔らかな淡い光がレオの睫毛にあたって、ヨルの心をくすぐった。

そのまま彼が肩にかけてくれたシャツを羽織ってベッドから出る。その途中、まだ名残惜しそうな彼を振り返って頬に軽いキスを残した。

「帰ってきたらまた、きみだけに可愛い声で鳴いてあげる」

レオは、ベッドの上からその姿をただ見つめていた。
逆光の中に浮かぶヨルの輪郭――自分のシャツを羽織って、素肌のまま歩くその背中に、彼女だけの色気と、甘やかな余韻が宿っていた。

「……それ、録音していいか?」

掠れた声で、冗談のように言ったあと、レオはゆっくりと上半身を起こした。
指先で自分の頬をなぞる。さっきキスを残された場所が、まだ熱を帯びている気がした。

「……本当に、仕事行きたくなくなるんだけど」

苦笑混じりに呟いても、足はベッドの端に下ろされる。
時計の針は容赦なく進んでいて、この甘やかな地獄から出ていかなければならないことを思い知らされる。

「……絶対、早く帰る」

そう呟いた声には、
まるで“今夜の続きを約束する”ような、
静かで真剣な決意がこもっていた。
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