服毒

56.『因縁』(3)


あれから数日後、古びた建物の前に立つヨル。
レオが働いている時間。ひとりで見知らぬ場所を訪れていた。

建て付けの悪い扉を開くと、子どもの声と共に訝しげに見つめる職員と目があった。

「こんにちは」

角が立たないように穏やかに挨拶してみせる。ここはレオがいた施設であり、あの男"内藤"が働いていたと言っていた場所だった。

「あら、こんな綺麗な娘さんがどうしたの?」

若い職員と違い、奥から出てきた女性は親しげに声をかけてきた。

「ヨルと申します。……ここでお世話になった者の恋人で。昔の写真があまり無いって寂しがっていたので、よければお写真見せてもらえないかと思いまして」

薄桃色のカーディガンを羽織った老職員は、ヨルが持参した小さな菓子折りを受け取りながら、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「あらあら、まあまあ……そんなご丁寧に。恋人さんのお名前は?」

その言葉に名前と年齢を伝えると、老職員どうやらレオを知っていたようで懐かしそうに微笑んで、応接室へと案内してくれた。

「レオくんの……恋人さんなのねぇ。まぁ、立派になって……ふふ、子どもだったのにねえ」

お茶を入れる手は覚束ないながらも、慣れた所作で湯呑みに温かい色を注いでいく。
名前は“佐々木”。この施設で四十年以上勤め、今は事務室の一角で記録の整理などを手伝っている。

「昔の写真を、見たいって……それは素敵ねぇ。あの子が、そう言ってたの?」

静かに頷いてソファに腰掛けるヨルの隣に、懐かしげにアルバムの箱を置くと、佐々木はゆっくりと腰を下ろした。

「全部はないけれど……ええと、どこだったかしらねぇ。ほら、運動会の時なんて、まぁ……大変だったのよ」

懐かしい写真を探しながら、佐々木は笑みを浮かべて、ふと語り始める。

「小さくて可愛いですね、今とは大違い……」

純粋に写真に映る彼の姿を愛おしそうに見つめるヨル。まだ家族を失ったばかりで傷が癒えていない頃の彼の姿。自分が知らない幼いその姿を無意識に指でなぞっていた。

「レオは、どんな子どもでしたか?」

内藤が語る彼との齟齬がないか、そして単純に彼がどんな風に過ごしていたのかが気になっていた。

「そうねぇ……レオくんは、静かだけど賢くて、年上の子たちにも物怖じしなかったわ」

アルバムのページをぱらぱらとめくりながら、佐々木は目尻を下げて懐かしそうに微笑む。

「でも……うーん、そうね、どこか人と距離を置いてるところがあったかしら。誰かが泣いてても一緒に泣いたりはしないけど、その子の隣に黙って座ってるような……不思議な優しさのある子だったの」

指先が止まったページには、小さなグラウンドの写真。ジャージ姿の少年たちが、綱引きをしている。そのなかに、やや後方で綱を握っている幼いレオの姿。

「──あの頃、ちょっとね……いやな事件があってね」

佐々木はふいに声を潜めるように言った。

「もう、何十年も前のことだから。今さらねぇ、誰に話すでもないけど……あなたは、レオくんの“大事な人”なんでしょ?」

茶菓子に手を伸ばすふりをして、ちらりとヨルを見やる。

「ある職員がね……今はもう居ないけど、少し、手癖の悪い人でね」

自ら探らずとも近づく真実に、ヨルの瞳が僅かに深くなる。

「……手癖の悪い、ですか?」

だが無理に追いかけず、何も知らないというように、彼女は佐々木の言葉を待った。

「ええ……まぁ、あんまり口外できる話じゃないけど」

佐々木は眉間にしわを寄せながら、アルバムのページをそっと閉じた。

「その人ね、若かったけど……子どもを見る目が、少し普通じゃなかったの」

遠回しな言い回しだったが、意味は明白だった。

「誰にも確証がなかったから、みんな最初は見て見ぬふりしてたのよ。あたしも……正直、気付いてたけど、怖かったの。職員のなかには“気のせい”って言って取り合わない人もいたし」

ふと、少し顔を曇らせたあと、彼女はそっと続けた。

「でもある日、レオくんが──その人に殴りかかったのよ。怒鳴り声がして、慌てて駆けつけたら、床にその人が倒れててね。小さな子が怖がって泣いてたわ」

当時の混乱を思い出すように、佐々木は浅くため息をついた。

「あとで分かったのよ。レオくんが、他の職員にずっと訴えてたんだって。“あの人はおかしい、誰かが傷つく”って。でも誰も信じなかった」

一瞬だけ、彼女は目を伏せた。

「結局、その人はクビになったけど……何の処罰もなく、施設から出ていったわ」

佐々木は静かに目を細め、またヨルへと視線を戻す。

「レオくん、あのときから変わったの。正義のこと、力のこと、それから……“信じてもらえないこと”の苦しさを覚えたんじゃないかしら」

佐々木から紡がれる彼の過去に、ヨルは眉を寄せた。膝の上に乗せた手に無意識に力が入る。

「……そんなことがあったなんて、知りませんでした」

自分の傷が癒えぬうちに、他者を助けるために行動を起こした彼の強さ。子どもながらに感じたであろう、己の無力さ。現実の不遇さ。考えるだけで苦しかった。

「だから、正しさを求めて警察官に……」

彼の過去を知ると同時に、その事実を都合の良いように歪めていた正体が繋がる。開かれたアルバムの職員一覧には、若かりし内藤の写真が並んでいた。

「その職員は、今なにを……?」

理性が揺らいでいた。思わず踏み込んだ質問に口を滑らせてしまったと思ったが、佐々木はあまり気に留めていないようだった。

「ああ……あの人ね」

佐々木は写真に視線を落とすと、ため息まじりに首を横に振った。

「辞めたあと、うちとは一切連絡取ってないわ。もう十年以上も前の話だし……たしか、どこかで酒に酔って問題を起こしたって噂も聞いたけど、真偽はわからないの」

そう言って、彼女はアルバムをそっと閉じた。

「うちはね、あの件のことは記録にも残してないの。正式な処分が下されたわけじゃなかったし、“施設の恥になるから”って、理事が封じたの」

少し寂しげに笑ってから、佐々木は目を細めてヨルを見つめた。

「でも、あの子にとっては、きっと大きな出来事だったと思うわ。自分の正しさが、誰にも届かない。叫んでも信じてもらえない。あの歳で……どれだけ辛かったか」

静かに語るその口調には、当時見ていた者にしか分からない痛みがにじんでいた。

「あなた、レオくんの恋人さんなんでしょ。あの子、あなたの前じゃ、ちゃんと笑えてるかしら」

そう問いかける佐々木の言葉は、ただの確認ではなく、“あの子の光になっていてほしい”という、静かな願いだった。

「……はい」

ヨルは佐々木の言葉に頬を緩めた。

「とても優しく、笑ってくれていますよ」

視線を交えると、彼の過去を伝えてくれた彼女へのお礼のように笑いかける。そして、それと同時に彼の幸せを脅かす存在への報復を誓っていた。

佐々木はその笑みを見て、少しだけ目を細めた。どこか懐かしさすら滲む眼差しでヨルを見つめる。

「……そう、よかったわ」

柔らかい声色でそう返すと、そっと立ち上がって棚からもう一冊、少し古びたアルバムを取り出した。

「この中に、あの子がいたころの写真がもう少し残ってるの。もしよければ、持っていって。あの子がどんなふうに過ごしてたか、恋人として知っておいてくれると、あの子も嬉しいと思うから」

ヨルの手にそっと置かれたそれは、年月を重ねたページの端にかすかな傷みがあった。けれど、写真の中の子どもたちは皆どこか眩しく、そしてどこか切なかった。

「レオくんも、あなたも。……どうか幸せに、ね」

佐々木はそれだけ言って、ふっとソファに腰を下ろす。お茶の温もりがまだ残るカップに目を落としながら、まるで遠い昔を思い出すような表情だった。
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