服毒

57.『因縁』(4)


湯気がわずかに残る洗面所の扉をくぐり、濡れた髪をタオルで押さえながらリビングへ戻るレオ。テレビの画面には、天気予報のキャスターがやや険しい表情で地図を指していた。

「本日深夜から明朝にかけて、関東地方では広い範囲で激しい雨が予想されています。特に沿岸部では突風や冠水の恐れも――」

その言葉にレオはふと眉をひそめる。湿気を孕んだ重たい風がどこか胸騒ぎを呼び起こすような、そんな夜だった。

バスタオルを首にかけたまま、キッチンに目をやると、食後の片付けを終えたヨルの姿が見えた。

「……今夜は雨、ひどくなるみたいだな」

そう言いながら、テーブルに残ったグラスを片付けようと手を伸ばす。自然体の声だが、どこか彼女を気遣う色が滲んでいた。

「そうなんだ。……これから少し外出する予定が出来ちゃったのに」

少し困ったように言うとレオからグラスを受け取って、慣れた手つきで洗った。

レオは手の動きを止めた。
拭き取ろうとしていたグラスの水滴が、指先から床にぽとりと落ちる。
ゆっくりとヨルの横顔を見た。

「……こんな天気の夜に?」

声音は柔らかい。でも、その奥に小さく揺れる警戒は、隠しようがなかった。

「誰と? どこに行くんだ」

それは恋人として自然な問いだった。
だが、ヨルにだけは通じてしまう。彼が今、どこか「不安」を感じ取っていることを。
だからこそ、レオはそれ以上声を荒げず、真っ直ぐに、ただ真実を聞こうとしていた。

「この間、レオの写真をくれた施設の方だよ。予定があって近くに来ているからって話でね」

酷く穏やかな声。何も問題はないと言うように笑いかけると、レオの手から落ちたグラスの水滴を手元のタオルで拭き取った。

「雨がひどくなる前には帰るよ」

レオはヨルの表情をじっと見つめた。
その笑みに嘘があるとは思えない。けれど、胸の奥に沈んでいた冷たい水が、じわじわと音を立てて広がっていく。

「俺も一緒に行く。……送るだけでもいい」

そう申し出る声は落ち着いていた。
だがそれは、ヨルが思っている以上の不安を押し殺してのものだった。

何かが、少しだけ違う。
言葉にできないその直感を、レオは無意識に拭い切れずにいた。

「どうしたの、過保護だね」

ふわりと笑うと、彼を安心させるように頬にキスを落とす。

「ひとりで大丈夫だよ、ちゃんと連絡もする」

レオはそのキスに目を細めながらも、口元だけは僅かに引き結ばれたままだった。

「……わかった」

たった一言、それだけで答える。

けれどヨルの手を取って、その指先に自分の唇をそっと重ねた。口付けというにはあまりにも静かで、あまりにも切実な“確認”。

「……気をつけて行けよ。遅くなるなら、必ず連絡を入れてくれ」

言葉は優しいのに、その奥にある何かが――微かに揺れていた。

「うん」

そう言った彼女が家に帰ってきたのは、雨がひどくなってから少し後のことだった。


───


警察署の廊下。
窓の外にはしとしとと雨の残り香が漂っていた。

その朝、署内に流れたのは「事故死」の一報。
──泥酔した中年男性が、深夜の地下鉄の階段で転倒し、死亡。
救急搬送されたが、搬送時にはすでに呼吸がなく、蘇生も虚しく心停止。

捜査に回されたのは交通課と地域課の一部。
事件性は低いと判断され、レオが関与する部署ではない。
だが──
その男の名を聞いた瞬間、胸の中の何かが鋭く突き上がった。

内藤義則。

絶対に、忘れられる名ではない。

「おい、レオ。今日非番だったよな?」

昼過ぎ、レオは同僚に呼び止められた。
「たしか……あの被害者、名前知ってるんだよな」
やや困惑気味に渡されたのは、事件の概略報告だった。
目を通した瞬間、視線が止まる。
【死亡時刻:22時12分】
【酒気帯び:検出】
【同行者:女性(証言による)】

「……誰と飲んでた」

思わず声が出た。

証言や周辺の聞き取り、店の記録から割り出された“同席していた人物”。
──そこに記されていた名は、ヨルだった。

瞬間、胃の奥が冷える。

一瞬の後、内藤とヨルの名前が並ぶ不自然さに、レオの思考が加速した。
なぜ。
なぜ、あのふたりが。

もちろん取り調べには立ち会えない。
レオは署内でこの件から意図的に外されていた。身内としての忖度を避けるための当然の処置だ。

だが、それでも関係者として話は耳に入ってくる。

──ヨルは穏やかに応じたという。
──「偶然近くに来ていたので、話を聞いた」と証言したという。
──会っていたのは彼の“施設時代”について話を聞くため、と。

冷静に、落ち着いた口調で。
特に動揺もなく、決して疑われるような態度はなかったらしい。

そして、決定的な要素。
【防犯カメラに映っていない】
【直接的な物理接触なし】
【毒物・薬物の検出なし】

──事件性なし。
──単なる事故死。
署内はその結論で静かに収束しつつあった。

だけど。

“それで済ませていいのか?”

レオの内側で、静かな声が響く。

ヨルが、“雨の日の夜”に、
“内藤”と、
“ふたりきりで会っていた”。

それだけで、胸に刺さるのだ。

彼女は言った。
「施設の話を聞くため」と。
それは“ウソ”ではない。
だが、本当に“それだけ”だったか?

内藤はレオの過去を歪め、言葉巧みに人を操るような男だった。あの男が、レオのためになるようなことをするとは到底思えない。

しかも、死亡した時間帯、雨が強まり視界が悪化していたという。
地下鉄の階段。
酔った内藤。
転倒死。

偶然にしては、“完璧すぎる”。

彼女が事故直前に帰宅していたのも事実。
着信履歴も、位置記録も。
すべて、完璧だった。
だから誰も疑わなかった。
誰も。

でも。

レオだけは、知っている。

あの夜、ヨルが笑って「過保護だね」と言った時の声。頬に落とされたキスの温度。
玄関を閉める直前、ほんの一瞬、彼女の瞳に揺れた“決意の色”。

彼女はあのとき、すでに何かを決めていた。

愛のために。
レオの“過去”を終わらせるために。

真実は、誰にもわからない。

けれど、レオだけは気づいている。
ヨルの無言の告白を。

──俺が守るべきだと思っていたその人は、
──俺を守るために、影で“牙を剥いた”のかもしれない。

それを知って、レオは苦しいはずだった。
なのに、胸の奥でこみ上げてくるのは、どこか静かな安堵のような感情だった。

「俺の存在が、おまえを壊すのか……」

誰よりも静かで、
誰よりも恐ろしい、
愛し方で。

レオは口に出すことなく、
そのすべてを胸の内に仕舞い込んだ。

そして、彼女が待つ部屋へと、
いつも通りの足取りで、帰っていった。
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