服毒
64.『香気』
まだ日の登らない早朝。
カーテンの隙間は濃い影を落とし、窓の外では、まだ朝の気配がほんのりとしか色づいていない。
レオは目を覚ました。
呼吸も音も立てずに、微かな寝返りだけで身を起こす。
隣に、ヨルがいた。
仰向けに眠るその姿は静かで、穏やかで、美しく――そして何より、心底愛おしかった。
白いシーツに埋もれるように、彼女の細い肩と、柔らかな髪。うっすらと胸元が上下しているのは、深い呼吸の証。その動きが“生きている”ということを、静かに伝えてくる。
レオはそっと、腕を伸ばした。
指先だけで、ヨルの髪をなぞる。ゆるく波打った黒髪に触れた瞬間、まるで吸い寄せられるように、その香りをもっと近くで感じたくなった。
誰よりも、この香りを知っていたい。
誰よりも、この体温を感じていたい。
彼女の存在を、五感すべてで記憶していたい。
レオはため息のように静かに息を吐いて、そっと体を寄せた。
彼女の髪の中に顔を埋める。耳元、まだ眠るヨルに気づかれないように、深く、そっと、吸い込んだ。
鼻先に触れる温度、湿度。
少しシャンプーの残る甘い香りに混ざった、ヨルだけの匂い。
それが、レオの理性をじわりと蕩かしていく。
苦笑混じりに思いながら、もう一度、深く息を吸い込む。肌の匂い、眠りの熱、鼓動の気配。その全部がたまらない。
「……んぅ……」
ヨルは首元にかかる息に僅かに身を捩った。まだ微睡の中、ただ仄かに感じる体温に眉を寄せて。
レオはその反応に、思わず身体を強張らせた。
けれど、ヨルの目はまだ閉じられたまま。
わずかに眉を寄せただけで、また静かに呼吸を整えて、深い眠りの中へと戻っていく。
その無防備さに、レオは思わず目を伏せた。
喉元で何かが詰まるような、苦しいほどの愛しさ。
そっと、ヨルの背中に手を回して、彼女の身体をゆるく引き寄せる。
自分の胸に密着させるように、だけど起こさないように静かに、音も立てずに、彼女の存在を吸い込むように抱き込む。
──全部、俺のものだ
思考が濁る。
抑えていた理性が、少しずつ甘く溶け出していく。
そっと、額を彼女に重ねる。
吸い込んだ吐息が、ゆっくりと肌へと返っていく。彼女の皮膚が、ほんのわずかに反応して、ぴくりと震える。
「……好きだよ、ヨル」
囁いた声は、吐息に紛れて彼女の耳に届くか届かないかの、曖昧な境界。
指先で、そっと彼女の腰を撫でる。
布越しに感じる体温、緩やかな呼吸、穏やかな鼓動。まるで、自分の一部のように感じるほどに馴染んでいた。
「……レオ……?」
ヨルは彼から漏れた声に反応するように、静かに目を覚ました。長い睫毛が揺れ、黒い瞳にレオの姿を映す。
「どうしたの……」
密着した身体と感じる息遣い。少し困惑したように笑って、彼の頬に手を添えた。
レオは一瞬、動きを止めた。
彼女の黒い瞳に見つめられて、
その表情に「困惑」よりも「微笑み」が混じっていることに気づいたとき――彼の理性が、静かに崩壊しかけた。
「……いや……その……」
視線を逸らす。
喉が詰まりそうなほどの気まずさ。だけど、抱きしめていた彼女のぬくもりだけは、どうしても手放せなかった。
「起こすつもりはなかった」
苦し紛れの言い訳を吐きながらも、頬に添えられた彼女の手の温度に、情けないほどの安心感を覚えていた。
「……おまえの匂いがして……安心して……」
その先の言葉は続けられなかった。
「……悪い、起こしたな」
耳まで赤く染まりながら、照れ隠しのように呟いて、レオは小さく苦笑した。
けれどその目は、彼女のことを――どうしようもないほど、愛しそうに見つめていた。
ヨルは、彼が自分の匂いを感じるために身を寄せていたことに気づくと、顔を綻ばせた。
「私の香りに包まれて、幸せだった?」
わざとらしく、彼の耳元で楽しそうにそう囁いた。少し恥ずかしそうにする彼の表情が愛おしくて仕方ない。
レオの肩が、びくっと震えた。
耳元で甘く囁かれた言葉に、思わず顔を背ける。ヨルの熱が彼の理性をゆっくり溶かしていくようだった。
「……笑うなよ」
小さく唸るように言っても、声に力はなかった。彼女の悪戯っぽい笑みに、返す言葉すら思いつかない。
ヨルの手のひらが、まだ頬に添えられている。
レオはその手を自分の手でそっと包んだ。
「……幸せだった」
やっとの思いでそう返すと、
ゆっくりと、照れ隠しのように彼女の額に唇を重ねた。密着したままの体温が、より強く彼の鼓動を伝えてしまう。
「……体温も、匂いも、呼吸も……おまえの全部が欲しくなる」
それは欲望というよりも、“ヨルがここにいる”という証が欲しいだけだった。
「……ちゃんと生きててくれてるって、感じたいんだ」
本当に、ただそれだけだった。
彼女が今、ここにいてくれること。
それを、少しでも長く感じていたかった。
照れ隠し混じりの声でそう呟いて、レオはそっと、再びヨルの首元に顔を埋めた。彼女の息づかいと体温が、すぐそこにあることが、何よりの幸福だった。
「私も、レオの匂い好きだよ。……きみの香りに包まれてると幸せになれる」
自分も同じようにレオを感じていたいのだと示すとそっと柔らかい言葉で包んだ。そして、かかる彼の息に少しくすぐったそうにしながら、首の後ろに手を回す。
「……だから、もっと甘えていいよ」
そう囁くと、いつも彼がしてくれるように自分の胸へと優しく引き寄せた。少し早くなった心拍が聞こえる距離。彼の呼吸を心臓の上で感じた。
レオはその瞬間、まるで全身が溶けそうになるのを感じた。
胸元に引き寄せられて、柔らかな肌と布の間から伝わってくる体温と鼓動――それが、自分の呼吸とぴたりと重なっていく。
「……ヨル」
彼女の名前を呼ぶ声は、どこまでも深かった。額を彼女の胸元に預けたまま、レオはそっと目を閉じる。
聞こえてくるのは、心音。
早鐘のように打つ彼自身の鼓動と、ヨルの胸の奥で響く微かに震えたリズム。
ふたつの命の音が、交差して溶けて――どちらがどちらの音なのか、わからなくなる。
レオはそっと彼女の胸に手を添えた。
その小さな体の中にある“命”を確かめるように、鼓動に、呼吸に、指先を重ねる。
「おまえのこと、本当に好きだ」
低く掠れた声で、ぽつりと呟いたあと、
レオはそっと彼女に顔を埋めた。何度も吸い込んだ、温かくて柔らかい、彼女だけの香りがすぐそこにある。
「……こんなに心地良くて、幸せでいいのか」
苦笑混じりの声は、もう照れを隠していなかった。むしろ、彼女にだけは見せていい顔として。心からの愛しさと、甘えと、幸福の全部を込めていた。
「ずっと……触れていたい」
そう呟いて、彼はもう一度、深く深く、ヨルを吸い込んだ。微かに熱を帯びた吐息が、彼女の鎖骨にかかる。
呼吸も、匂いも、心音も――全てがレオの中へと、深く染み込んでいった。