服毒

65.『体温』


夜の帳がすっかり降りて、外気は肌を刺すような冷たさを帯びていた。

けれどリビングの空気は、その寒さをすっかり忘れさせるほど、柔らかく温かい。床暖房のぬくもり、暖房の低い稼働音、そして、ふわりと香る紅茶の匂い。

風呂上がりのレオは、まだ少し濡れた髪にタオルをかけたまま、首元まで蒸気を残した肌を晒して部屋へ入ってきた。珍しく、シャツを持って行くのを忘れたらしい。バスタオル一枚肩に引っ掛け、片手には髪を乾かすつもりのドライヤー。

「……部屋の中、あったかいな」

床に足をつけた瞬間、小さく呟く。

リビングの奥。
ソファに座るヨルの姿が、すぐに視界に入る。
紅茶の入ったカップを両手に抱えたまま、こちらを見上げるその表情には、いつもの静かな気配と、どこか柔らかな光があった。

ヨルの瞳は、じっとこちらを見つめたまま。まるで、何かを言おうとしているように瞳が細くなっていた。

「……どうかしたか?」

その呼びかけにヨルは足を組み替え、持っていたカップを静かにローテーブルに置く。そしてもう一度彼へと視線を戻すと、下から上へゆっくりと這わせた。そして彼と視線が交わるとほんの少し頬を緩める。

「レオの身体、綺麗だね」

恥ずかしげもなく真っ直ぐに見据えたまま。日頃から積み重ねた鍛錬が現れた肉体を鑑賞するように、彼女はレオを見ていた。

レオはその言葉に一瞬、思考を止めた。
まるで心臓の鼓動が一拍飛んだかのように、静寂が身体の奥で弾ける。

「……おまえな」

低く、呆れにも照れにも似た声が漏れた。
だがその声音の奥にあるのは、明らかに平静を保とうとする努力だった。

ゆっくりと息を吐いて、彼は頬を指で掻く。
その仕草は無意識に、熱の籠もった頬を冷ますためだったのかもしれない。

レオはわずかに目を伏せて、無意識にバスタオルの端を握り込んだ。
ヨルの視線の熱が肌に刺さる。自分がいま“見られている”という事実だけが、やけに実感として胸に染み込んでくる。

レオはわずかに喉を鳴らして、目を細めた。

「……そんな目で見るな。落ち着かない」

そう言いつつも、逃げるようには動かない。
むしろどこか居心地悪そうにしながらも、その視線を受け止めている。

「……鍛えてるのは、仕事のためだ。見せるためじゃない」

そんな言い訳めいた言葉を添えて、少しだけ目線を逸らした。でもほんの一瞬だけ、ふっと笑ったような気配もあった。

ヨルはソファから立ち上がると、少し照れた様子の彼に近づく。そして、脇腹にそっと指を乗せると、筋肉の形に沿って喉元まで撫で上げた。

「見ちゃダメなの?」

濡れた髪の間に覗く眉が、困ったように寄せられるのを見て微笑んだ。それから心拍を感じられるように心臓の上に手を乗せ、拒否など無意味だというように黒い瞳で見上げる。

「……こんなに反応してくれるのに?」

その表情は獲物を前にした猫のようだった。

レオの肩が、わずかに震えた。
明らかに甘やかな刺激に対する反応だった。

喉元を撫で上げた彼女の指先に、微かな緊張が肌を走る。心臓の上に添えられた手に触れる鼓動は、平静とは程遠い速さだった。

レオは息を吸って、そして細く吐く。

「……わかってやってるな?」

低く、喉の奥で唸るような声。
彼はそっと手を伸ばして、ヨルの細い手首を包み込んだ。肌に触れる体温が、リビングの空気よりずっと熱い。

そのまま彼は、彼女の体を自分の方へ引き寄せた。距離が一気に縮まり、ヨルの鼻先に濡れた髪がかすかに触れる。
レオの肌から立ち上る湯気と石鹸の匂いが、すぐそこにあった。

「俺を煽っておいて……逃げられると思うなよ」

肩にかかっていたタオルが、ふわりと滑り落ち、静かに床へと落ちる。

彼の声は、穏やかに抑えているつもりだった。
けれど、滲み出る熱は抑えきれず、言葉の奥で揺れていた。

「……煽ってないよ」

悪戯に緩やかな弧を描く唇で、引き寄せられるまま彼の頬にキスを落とした。そのまま耳元まで滑り、軽いリップ音を残す。

「本当のこと言っただけ」

吐息混じりに囁くとレオの背中に手を伸ばした。呼吸がかかる距離。彼女の首筋に、レオの濡れた髪から水滴が落ち流れていく。

レオは、その一滴が肌を滑る光景へ僅かに目を細めた。

耳元で囁かれるヨルの声、吐息。それは寒い冬の夜に似合わないほど、甘く熱い。全てが、彼の理性の縁をじわりじわりと焼いていく。

「まったく……」

言葉の続きを探すように、レオは小さく呻いた。しかし見上げるヨルの瞳と触れるたび、言葉は熱に溶けて霧散していく。

彼は背中に回されたぬくもりを受け止めながら、そっと彼女の腰を引き寄せる。
濡れた額がヨルの額に触れた。

「湯冷めしそうだから、服取ってくるつもりだったのに……」

囁きながら、レオはヨルの頬に唇を寄せた。
ただ、そっと触れただけの、ぬくもりの交換。

「……もう少しだけ、このままでもいいか」

呆れの混ざった彼の声はどこまでも静かで、甘い。

ヨルは直に伝わる温度に幸せそうに瞳を閉じた。感じる体温、呼吸、鼓動。その全てが彼の存在を主張している。

「……レオ」

柔らかな声で呼びながら、背中から腹まで指先を滑らせた。強張った筋肉の間を縫う様に触れて、呼吸により上下する動きに生を感じる。

「きみは私のだよね」

ほんの少し見え隠れるする所有欲。声に圧はない。ただ確認する様に溢れた言葉だった。

レオは、ヨルの細い指が自分の身体をゆっくりとなぞるたび、胸の奥に熱がじんわりと満ちていくのを感じていた。
その指先が、自分の存在を確かめるように動いていることも、ちゃんと分かっていた。

「……ああ」

小さく、けれどはっきりと答える。

「おまえのものだよ」

その言葉はレオにとってただの事実であり、静かな肯定だった。

レオは、ゆっくりとヨルの顎先を指で持ち上げた。視線が交わる。黒く澄んだその瞳の奥に、自分だけを映してくれているのが分かった。

「おまえだけに見せる身体だ。触れていいのも、おまえだけ」

そう言いながら、彼女へそっと唇を押し当てた。長く、深く。まるで印を刻むように。

ヨルはその返答に嬉しそうに微笑むと、少し身体を離して彼をソファへ導いた。手を引いて座らせると、目の前に立ち自分のシャツのボタンへと指をかける。

言葉ない。彼女はただ静かに一枚、布を床へ落とした。

レオの喉が、ごくりと鳴った。

そのわずかな動きが、部屋の空気を変えた。
紅茶の香りも、暖房のぬくもりも、すべての感覚が鈍っていく中で──ヨルの存在だけが、研ぎ澄まされていく。

目の前に立つ彼女の姿を、レオはじっと見つめた。視線を逸らすことなどできなかった。まるで祈るように、息を止めてすらいた。

「……ヨル」

絞り出すように名を呼んだ声には、どこか震えが混じっていた。

レオはゆっくりと手を伸ばした。
指先が、彼女の腰にそっと触れる。それは、所有でも、征服でもなく──まるで陶器を撫でるような、崇拝に近い触れ方だった。

「おまえの方が……ずっと」

ふっと息を吐いて、レオは彼女の手を取る。
重ねるようにして、自分の胸へと導いた。

「“綺麗だ”」

真っ直ぐに見上げるその瞳は、熱と静けさを同時に宿していた。

ヨルは彼が綺麗と言ってくれた身体で、彼の脚にまたがる様にソファの上に膝で立った。背もたれに手をついて彼の瞳を見下ろす。

「……レオ」

愛おしさの滲んだ声でそっと名前を呼ぶと、そのまま頬に手を添えて優しく口付けた。甘く絡む熱と共にゆっくりと身を寄せて、互いの体温が最も感じられる形で抱きしめる。

「あったかいね」

心からの安心を手にしているかのように柔らかく微笑むヨル。彼の膝に預けた身体。離れた唇は心音を感じるために彼の胸に寄せられていた。

レオは、その柔らかな重みを膝に感じながら、
深く、深く息を吐いた。

その香り、その体温、その重み。
ただそこに「ヨルがいる」という、それだけの事実が、今の彼にはすべてだった。

彼女の指先が頬に触れて、柔らかく重ねられた唇が熱を宿すたび、自分の心臓が確かに“彼女のためだけに”鼓動しているのが分かる。

「……そうだな」

そう呟いて、レオはそっと彼女の背に手を回した。
背骨に沿って指を滑らせ、ふわりと肩甲骨を包み込むように撫でる。彼女の肌は、驚くほど柔らかくて、ぬくもりに満ちていた。

彼の胸に寄り添うヨルの髪からは、微かに湯の香りが残っていた。
肌を通して伝わる鼓動は、まるでふたりの音が重なっていくようだった。

「……幸せ過ぎて夢みたいだ」

それは照れ隠しの言葉じゃなかった。
本気で、素直に、こぼれた本音だった。

胸に寄り添う彼女の髪を撫でながら、彼はそっと目を閉じる。抱きしめる腕に力を込めて、まるでこの時間ごと、大切に包み込むように。

ヨルは抱きしめられる腕の中で、彼に合わせて呼吸を繰り返した。互いに生きていることを認識するために、心拍に耳を澄ませて。

無防備に身を預けたまま静かな時間だけが流れる。

そうしてヨルは彼の存在を手にしたまま、いつのまにか眠りへと落ちた。服を脱いで肌が触れ合ったまま、レオにとっては半殺しの状態で。

彼女の呼吸は深くゆるやかで、胸元で規則正しく上下する。まるで、彼に包まれたまま夢のなかに溶けているようだった。

「……ヨル」

苦笑交じりに小さく呟く。
その声には、どうしようもない愛しさと困惑が滲んでいた。服を脱いで、こんなにも無防備で、膝の上で眠るなんて──男としての理性を試されているとしか思えない。

レオはそっと息を吐いて、彼女の背に触れていた手を一度だけ軽く支え直す。
眠りに入ったことを確かめるように、指先で肩を撫でる。その肌の温もりが、じわじわと自分の中に広がっていくのが分かった。

「……どこまで俺を試すつもりだよ」

ぽつりと、まるで独り言のように落とした声。

柔らかく閉じたまぶた、穏やかに緩んだ表情。
普段は見せない姿を自分にだけ見せてくれているというその事実が、たまらなく愛しかった。

レオは静かに、自分の頬を彼女の額に寄せた。
互いの呼吸がひとつになるような距離で。

そしてそのまま、彼ももう一度そっと目を閉じる。世界でいちばん安心できる、たったひとりの温もりに包まれて。

「……おやすみ、ヨル」

──ぬくもりの中で眠る、冬の夜。
幸福と安心で、ゆっくりと満たされていく静かな時間だった。
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