服毒

66.『投影』


雨が降っていた。

薄暗い取調室の蛍光灯が、書類の上に無機質な影を落としている。
対面に座る男は、乱れた前髪の奥で虚ろな目をしていた。その視線は、目の前の刑事ではなく、過去に囚われたまま遠くを見ている。

「……俺は、ただ一緒にいたかっただけなんだよ。なんで、わかってくれなかったんだ……」

レオは男の言葉に表情を変えなかった。だが、ペンを持つ手がわずかに止まる。

「別れたいって言われて……引き留めた。何度も、ちゃんと話せば戻ってきてくれるって信じてたんだ……でも、でも……!」

声を荒げた男の瞳に、突き刺すような痛みが浮かんだ瞬間――
レオの心臓が、ひとつ、鋭く軋んだ。

……ヨルが、俺を拒絶したら?

その問いが、脳裏を過った。
本来は容疑者に対する観察であるべき場で、レオの意識は別の場所へ引き戻されていた。

「他の男と……手を繋いで笑ってるのを見たんだ……あいつは、もう俺なんか……」

まるで、誰かがレオの胸を掴んで締め上げているようだった。
この男は、自分とは違う。理性を欠いた、殺人犯。

……そう断じなければいけないのに、その心の奥に、自分もそこへ堕ちていく可能性があることを、彼は感じていた。

──違う、俺は……

書類を閉じ、立ち上がる。
視線を上げると、鏡越しに映る自分の顔が、妙に青白く見えた。





夜遅く、レオは帰宅した。

ドアを開けた瞬間、部屋の灯りが穏やかに迎えてくれる。
でもそのぬくもりの中に足を踏み入れても、胸のざわつきは消えなかった。

「ヨル……」

別の部屋にいるのか、彼女の姿は見えない。
何か言葉をかけるでもなく、レオは上着を脱いで、そのままリビングの奥へと進む。

そして――
ふと、寝室の方から漂ってくる、微かな甘い匂いに気づいた。

ヨルがいる。

ただそれだけで、呼吸が少し整いそうになるのに、次の瞬間、その“存在の不確かさ”がまた心をかき乱した。

「……」

音を立てずに寝室の扉を開ける。
部屋の中には柔らかな明かりが灯り、彼女は窓辺に立っていた。
細い肩越しに、長い髪が揺れている。

なぜか、その後ろ姿が――遠く感じた。

もう、触れられないかもしれない。
そう思ってしまった瞬間、レオはたまらず近づいた。

「ヨル……」

背後から抱き寄せる。

自分の腕に確かに存在するぬくもり。
でもそれが、今にも零れていきそうで、レオは肩に額を押し当てた。

「レオ……?」

ヨルは唐突に抱き寄せられた自分の身体に少し驚いた反応を見せる。だが直ぐにレオであることを確認すると、その腕を優しく撫でた。

「おかえり、遅かったね」

もうすぐ日付が変わる。静かないつもと変わらない夜。だが、彼は何かに怯えているようだった。

「……どうしたの、何かあった?」

背中の熱が僅かに震えていることに気づき、彼女は声に優しさを滲ませた。

「……ごめん。何でもない。……ただ、」

声は低く震えていた。
現実にあるこの“幸せ”が、自分の掌から零れる予感がして――

温もりの中に、ヨルの問いかけがじんわりと染みてくる。優しい声が、胸の奥に残るざらつきを少しずつ溶かしていくようで、思わず目を閉じた。

「……仕事で、疲れたんだ」

かろうじて搾り出した言葉は短く、曖昧だった。
それ以上の説明は、今はまだ口にしたくない。
いや、口にしたら本当に自分が、あの容疑者と地続きの人間なんじゃないかと、確信してしまいそうだった。

「……ヨル」

そっと名前を呼ぶと、レオは少しだけ腕を緩めた。
それでも、離れることはしない。むしろ、彼女の身体を包み込むように再び強く引き寄せて、頬を肩口に埋めた。

「……おまえが、他の誰かを見て笑うところなんて……見たくない」

静かな、でもどこか切実な声だった。
今この瞬間、心に湧き上がっていた感情の奥底を、少しだけ覗かせてしまった。

自分でも気づかぬうちに漏れ出た独占欲。それが「不安」なのか「恐怖」なのか、あるいは「後悔」の予感なのか、レオにはまだうまく言葉にできなかった。

けれど、その震えは、確かに――彼女にしか見せない脆さだった。

「……大丈夫、私はレオのそばにいるよ」

不安定な彼を落ち着けるように静かに伝えると、ほんの少し緩んだ腕の中で彼へと向き直った。レオの瞳の奥の不安を救うように、視線を交えて。

「きみだけを見てる」

優しく頬に手を添えると柔らかく微笑んで見せた。

レオはその言葉に、まるで堰を切られたように息を吐いた。胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ音を立てて崩れる。

「……ヨル」

目の前の彼女は、いつも通りの落ち着いた表情で、けれど確かにレオだけを見ていた。
他でもない、自分を。
さっきまで容疑者の顔に重ねていた“狂気に堕ちた男”とは違う、ちゃんと今ここにいる自分を。

その事実に、救われる。

レオはヨルの手に自分の手を重ねると、そっと額を預けるように触れた。

「……俺が今、取り調べてるのは……恋人を、殺した男だ」

低い声で、ぽつりと零す。

「女に振られて、執着して、相手の家の前に毎晩立って……それでも諦められなくて、相手が別の男と一緒にいるのを見て……首を絞めたって」

乾いた口の中で、言葉を転がすようにゆっくりと。

「……そいつを、責めることができなかったんだ。気がついたら、そいつに自分を重ねてた」

どこか苦しそうに、少しだけ視線を伏せる。

「おまえに“もういらない”って言われたら、俺も……まともでいられる自信がない」

吐き出されたのは、警察官として、人として、決して口にしてはいけないはずの本音。

けれど、目の前にいるヨルにだけは、それを伝えられた。

弱さも、醜さも、全部さらけ出してしまえる存在。それほどまでに彼女は、レオの中で特別な存在だった。

「……そっか」

ヨルはそっと彼に口付けた。ただ軽く触れただけ。だが、しっかりと自分の気持ちを伝えるように優しい熱を含んでいた。

「私はきみがくれるなら、“終わり”でも嬉しい」

彼の全てを奪ってしまいたいという欲の底には、自分の全てを差し出すことへの躊躇など無かったから。

「でも、私がいない世界できみが苦しむのは嫌……」

少し眉を寄せて、存在するかもしれない未来を想像する。自分を失って壊れていくだけの彼に触れられないのは、何よりも辛いだろう。

「だから、きみから離れたりしないよ」

下手な慰めより、同じだけの重さを返す。そうすることでしか保てない天秤の上にいる、それを自覚しているが故に。

レオは、ヨルの言葉にゆっくりと目を伏せた。

彼女の口から出たのは、理性的な説得でも、優しさに包まれた慰めでもなかった。ただ、静かに、同じ熱量で返された執着。

そして、それが――誰よりも彼を救った。

胸の奥をひとつずつ解かれるような感覚。
ヨルの声が、熱が、言葉が、張り詰めていた何かをそっと撫でていた。

「……ありがとう」

小さく笑って彼女の肩に預ける。震える呼吸が、そっとヨルの首元にかかった。

「おまえは、怖いくらいに……俺の中を見抜いてる」

絞り出すように言って、彼はヨルを静かに引き寄せた。壊れそうな不安も、醜い嫉妬も、抱えたまま。それでも、いま目の前にある温もりに縋るように、肩を抱いた。

本当は、自分の醜さを告白すれば、彼女が一歩引くかもしれないとどこかで怯えていた。
けれど、ヨルは同じ深さで飛び込んでくれる。

「……なあ、ヨル」

耳元に落ちる声は、少しだけ震えていた。

「ずっと俺のそばにいてくれ。……もう、自分で感情を制御できなくなってる」

頬をすり寄せるようにして、彼女の髪に顔を埋めた。まるで「生きたい」と言っているようだった。

彼女がいない未来なんて、想像もしたくない。
いっそ、全部終わりにしてくれた方が楽だとさえ思う。

その願いを、哀願を、彼女だけが受け止めることができる。レオはそう確信していた。
だから、このどうしようもない感情も、全部晒せた。

彼にとっての“生きる意味”は、もう――
彼女ひとりに、集約されてしまっていた。

「……レオ」

不安に包まれた彼の心に触れるように、優しく背中を撫でる。何度もゆっくり丁寧に、彼が安心できるように。

「私はきみが好き。……正義感も優しさも独占欲も執着心も、私に向けられているなら、その全てが好き」

どんな醜い感情でも気にならない。ただ自分にその視線が向いているのなら、それだけで良い。

「きみが真っ当に生きたいと願っている間は、望み通りの幸せをあげたい」

だから、ずっとそばにいる。彼が望む限り。──そんな意味を込めて。

レオの身体が、ほんの僅かに震えた。

その言葉が、彼の心の奥底にまで届いていた。
愛している、と言われるよりも深く。
赦されたような感覚に、ようやく息ができたような気がしていた。

自分の「醜さごと」肯定されたことが、どれほどの救いになるか……痛いほどにわかった。

「……ヨル」

レオはそっと顔を上げると、彼女の額にそっと口づけた。額から頬、そして唇へ。
どの接吻も、確かめるように。感謝と、愛と、誓いを込めるように。

頬に感じる彼女の指の温度。
背を撫でる優しい手の動き。
自分のすべてを受け止めてくれる彼女の言葉。
そのひとつひとつが、レオの中で――“人として戻ってくる”感覚に繋がっていた。

「俺は……」

言葉が喉の奥で詰まる。けれど、それでも。

「おまえに救われてばかりだ」

目を閉じ、深く息を吐く。そして、彼女の頬に手を添えて、そっと額を重ねる。

「真っ当に生きて、おまえと幸せになりたい。そのためなら、どんなに苦しくても踏みとどまってみせる」

かすれるような声で、けれど確かな意志を込めて告げた。

「だから、これからも……俺だけを見ていてくれ。ヨル」

彼女の手をとり、その甲に口づけた。
そっと視線を合わせる。黒い瞳に、自分の姿が映っていることが、何よりの証だった。

「うん……きみも私だけを見てて」

微笑む彼女の瞳は、確かに優しく微笑んでいた。
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