服毒
08.『我慢』
玄関のドアを閉める音が静かに響く。
薄暗い廊下の照明の下、ヨルは少し震える手でゆっくりとコートを脱ぎながらレオの方を見た。
「レオ、これどういうつもり?」
彼女の声は冷静で、けれど底に隠しきれない怒りが滲んでいる。
シャツの襟元から覗く白い首筋には、赤いキスマークがくっきりと刻まれていた。
レオはドアのそばに立ち、無言でそれを見つめる。
彼の表情は硬く、瞳の奥に揺れる感情は読み取りにくい。
「……それは……」
低く、ほんの少し掠れた声で言いかけるが、言葉を選んでいる様子だ。
ヨルはじっと彼を見つめ、腕を組みながら待った。
静かな部屋に二人の呼吸だけが響いている。
「気がつかなくて半日見せびらかすことになった」
それはレオの所有物であると暗に知れ渡らせるための確かな印。変な虫が寄らないのなら本望だと思っていたが、彼女のお気には召さなかったらしい。
レオの瞳が一瞬だけ鋭く光った。
しかし、その表情はすぐに柔らかくなり、微かな苦笑が口元に浮かぶ。
「悪気はなかったんだ」
彼はゆっくりと歩み寄り、言葉とは裏腹に少しだけ手を伸ばす。
だがヨルの鋭い視線に止められ、指先は宙を彷徨う。
「おまえがどう思うか、考えずに……ごめん」
言葉の端々に、自分の愚かさを認めるような響きがあった。レオの硬い表情の中に見え隠れする、ほんの少しの弱さ。
ヨルはそんな彼の顔をじっと見つめていた。
怒りだけじゃない、複雑な感情が交差しているのがわかった。
「……次は、ちゃんと考えて」
その声は冷たいけれど、どこか切実だった。
「嫌なわけじゃないけど、少し...」
そこで言葉を区切ると目を逸らした。ヨルの耳はほんのり赤く色づいている。
「恥ずかしかったから」
レオはその言葉に、一瞬だけ目を細めた。
そして、ゆっくりと息を吐くようにして、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうか」
しばらくの沈黙のあと、彼はそっとヨルの手を取った。
手の温もりが伝わるたび、ぎこちなさと優しさが混じり合った気配が部屋に満ちる。
「次から、もう少し控えめにするよ」
その声には、どこか嬉しそうな響きが含まれていた。
「今の声色、信用できない」
行為そのものを否定されたわけではないと安心して喜んだレオ。隠せなかった声色をヨルは見過ごさなかった。
「前もそう言って跡残してた」
あの日は事前に気づいて隠せたから良かったけど、と振り返る。
レオの眉が一瞬ぴくりと動く。
だがすぐにふっと肩の力が抜けて、照れ隠しのように笑みを浮かべた。
「……お見通しか」
彼の声は、少しだけからかうようで、けれどどこか愛おしさも滲んでいる。
「前も言ったけど、その時は……つい、夢中になって」
レオはヨルの手をそっと握り直す。
「言い訳はもういい。悪い子のレオにはお仕置きが必要みたいだね」
小さな溜息をつくと、彼の腕を引いて徐に椅子に座らせた。
「……お仕置き、ねぇ」
椅子に腰を下ろされたレオは、やや面食らったように目を瞬かせた。
だがその顔には警戒よりも、どこか期待と興味が入り混じったような色が滲んでいる。
ヨルの意図が読めず、けれど彼女の纏う空気に逆らう気もない。
レオの肩にそっと触れる腕を見て、緊張と興奮を内に孕んでいるのが自分でもわかる。
彼女にこうまで主導権を握られるのは珍しい。
だが、それすら悪くないと感じるあたり――すっかり骨抜きなのだと、自嘲めいた苦笑が漏れた。
「で。俺は、何されるんだ?」
少しだけ挑発するように見上げる。
けれどその声の奥には、確かに、彼女に惹き込まれる本心が滲んでいた。
ゆっくりとレオの首元にかかるネクタイを外しながら耳元で囁く。
「何されると思う?」
その言葉は彼に歪んだ期待を与えるとわかっていて投げかけられた。彼女は解いたネクタイを持って怪しげに微笑む。
ネクタイが首元から滑り落ちる感触に、レオの喉がかすかに動いた。
次の瞬間、ヨルの指先がそっと目元に触れ、視界が闇に包まれる。
「……っ、……ヨル」
思わず声を漏らすも、制止の意志はこもっていない。
むしろその声は、僅かな困惑と、抗えない高揚に揺れていた。
ネクタイを目元で結ぶために彼女が近づくたび、いつもより強くヨルの香りを感じる。
視界を奪われたことで彼の五感は鋭敏になり、ほんの少しの空気の動きや気配すら、意識の奥に深く響いた。
レオは静かに息を吸う。
「……まさか、そんなことまで覚えるとはな」
いつもと逆転した立場に期待を込めて早まる鼓動。あまりに自分を知り尽くしている彼女を感じ、思わず口角が上がる。
「教えてくれよ、ヨル。……おまえの“お仕置き”ってやつを」
声は低く、少し掠れていた。
闇の中で、レオはただ、彼女の手の動きと、言葉だけを頼りにしていた。
「これから私がきみに何をしても"我慢"して」
どこか楽しそうに言うヨル。
我慢すること。だから手足は自由に、だが感覚を研ぎ澄ますために視覚を奪った。
「もしも我慢しきれなかったら、今後見える場所には絶対キスマークを残さないって約束して」
レオはネクタイ越しの闇の中で、わずかに息を詰めた。
手足は自由――けれど、目が見えないだけでこんなにも不自由になるものかと、改めて痛感する。
そして、その状況を作ったのがヨルだという事実が、妙に心をざわつかせた。
「……随分と強気だな」
低く呟いた声は、喉の奥でくぐもり、どこか悔しげで、しかし楽しそうでもある。
自分の理性を試すつもりで、あえてそう仕掛けてきた彼女の企みに、しっかりと飲まれている。
それが分かっているのに、抗うどころか、むしろそれを楽しみ始めている――
そんな自分にも気づいて、レオは小さく笑った。
「……分かったよ」
唇をわずかに持ち上げ、レオは答えた。
「我慢する。……けど」
そこまで言って、彼はわずかに身を乗り出すように、空気の揺れを辿って彼女の気配に寄る。
「おまえも、ちゃんと責任とれよ……ヨル」
その声は低く、けれどどこか熱を孕んでいた。
闇の中、彼の理性は今、細い綱の上を歩いていた。ヨルの一挙手一投足が、彼をその綱から落とすか、あるいはもっと深く支配するか――
すべては彼女の掌の中にあった。
「きみの理性はどれくらい持つのかな」
椅子に座った彼の膝に跨がると、鼻の頭から心臓のあたりまでゆっくりと指先でなぞる。
レオの身体がわずかに強張る。
視界を奪われた今、ヨルの指先の動きひとつひとつが、皮膚を焼くように鮮明だった。
膝に感じる重み、距離の近さ、そして何よりも――彼女の声と仕草に込められた“意図”。
「……っ」
喉の奥から漏れた声には、抑え込んだ衝動がにじんでいた。けれど、まだ手は動かさない。ルールは「我慢」。
それに従うと決めたのは、自分自身だった。
指先が心臓の上に触れたとき、レオの胸の鼓動がはっきりと伝わっただろう。
まるで彼の想いがそこに集まっているかのように、速く、熱を帯びていた。
「……悪くないお仕置きだな」
声にかすかな笑みを乗せながらも、レオの指先は椅子の肘掛けを強く握っていた。
動かせるのに、動かない。それは自制であり――ヨルへの信頼でもあった。
彼女が次にどんな一手を打つのか。
彼は、まるで獣のように本能を抑え込みながら、目隠しの奥でその瞬間を待っていた。
「レオ、耳も好きだよね」
吐息混じりに囁くと、ふぅと風を送る。
そのまま耳に軽いキスをしてリップ音を響かせた。
レオの身体がびくりと震えた。
わずかな吐息と、音を立てたキス――それだけで、張り詰めた理性がぐらりと揺れる。
「……ヨル」
呼びかける声は掠れ、明らかに平静ではない。
目隠しの奥で閉ざされた視界が、かえって他の感覚を鋭く研ぎ澄ませている。
ヨルの声、息遣い、唇の柔らかさ――それらが、じわじわとレオの理性を侵食していた。
何度も何度も重ねられるキス。舌先が輪郭をなぞるように舐め取る。その全てが彼の想像を掻き立てるようにじわじわと侵食する。
それでも彼は、必死に耐えていた。
強く握られた肘掛けの跡が指に残るほどに。
それはもう我慢というより、苦行に近い。
「……ほんと、おまえ……」
声は苦笑まじりで、どこか情けない。
「……そんな遊び、いつ覚えたんだ」
目隠しの下で、眉をひそめたまま、レオはゆっくりと深呼吸をする。
だが、その息は微かに震えていた。
ヨルの仕掛ける小さな一手が、確実に、彼の耐久値を削っている。
まるで彼女が主導権を握ることを当然だと思っているかのように、今のヨルは堂々としていて――それがまた、彼の理性を追い詰めていく。
「なあ……あと何回、そのキスすれば満足なんだ?」
レオの問いは、苦しげで、どこか甘えるような響きを含んでいた。
彼の質問には答えず、そのまま反対の耳にも同じようにキスを落とす。
「レオ...」
しっとりと柔らかく甘い声で名前を囁く。
レオの喉が、ごくりと音を立てて鳴った。
片耳だけでは足りないとばかりに反対側にも落とされたキス、そして――名前を呼ぶ声。
それだけで、全身を電流のような熱が駆け巡った。
「……ヨル……」
呼吸が不規則になっていく。
目隠しの奥で表情は見えないはずなのに、ヨルにはきっとすべて伝わっている。
彼が今どんな顔で、どれほど理性を繋ぎとめているのかを。
彼女の唇がもう一度触れた瞬間、レオの背筋がぴくりと反応する。続けて耳元に落ちる「好きだよ」という一言。ただそれだけの言葉なのに、目隠しされた彼には、想像以上に重く響いた。
そして少し間を開けて、吐息混じりの言葉が届く。
「全部、私のものにしてしまいたい」
その言葉に、レオの胸は熱くなる。
普段は強く感情を見せない彼女が、今、自分の独占欲を隠さずぶつけてきた。
まるでレオの持つ独占欲に呼応するかのように。それは、甘くて、残酷で、たまらなく嬉しい。
「おまえ……それは……」
レオの声は低く、苦しげで、しかしどこか陶酔していた。
ヨルに翻弄される自分を認めながらも、それを嫌がっていない。むしろ、望んでしまっている――そんな弱さを隠そうともしない。
「……全部、おまえのものにしていいから……」
言葉が途切れる。
「……だから、そろそろ――限界だ」
声の中に、警告と懇願が混ざる。
ヨルが求めていた“理性の崩壊”は、今まさに、レオの指先から心の奥へ伝染しようとしていた。
「もう限界?」
最後に囁くと次は唇へと近づく。
「まだここには触れてすらいないよ」
呼吸が伝わるほどの距離。だがヨルは口付けることなく指でそっとなぞった。
「……くそ……」
レオの唇がかすかに震える。
彼女の囁きが、呼吸が、唇をかすめる指先の感触が、もうそれだけで限界を知らせていた。
目隠しの奥の視界は闇のままなのに、目の前のヨルのすべてが手に取るように感じられる――それがまた、たまらなく悔しく、愛しい。
「……なあ、ヨル」
その声はかろうじて抑え込んだ熱を帯びている。触れられていないのに、これほど支配されている。
自分を理性の淵まで連れてきて、なおも見下ろすように笑う彼女。
どちらが主導権を握っているかなんて、言うまでもない。
だがレオは、それを嫌がってはいなかった。
むしろ、彼女にしかできないそのやり方で、自分を弄ばれていることに深く溺れつつある。
「……もう、触れてくれ」
唇に触れたヨルの指先に、自分からそっとキスを落とす。
その行為には、欲しがる男の本音がにじんでいた。
「お願いだ...」
理性はまだ一線を保っている。けれど、あとほんの一滴で溢れる。
自分を必死に求める愛おしい存在。ヨルは彼の頬に手を添えると優しく、唇軽く触れるだけのキスをした。まるで蝶が止まったような、彼が望むには程遠い軽すぎる口付け。
「...かわいいね」
全然足りないとわかっていながら、望み通り触れたよと微笑むヨル。彼女の行動全てがレオの引き金に力を込めていく。
レオの呼吸が止まり、時間が凍ったように感じた。
頬に触れる手のぬくもり、そして唇に落ちた儚いキス――
ほんの一瞬だった。なのに、あまりにも深く胸を抉ってくる。全身に駆け巡る感情の奔流に、限界は目の前まで迫っていた。
「……かわいい、って……おまえな……」
かすれた声でようやく紡いだ言葉は、呆れとも諦めともつかない熱を帯びている。
だが、その裏には確かに震えるほどの愛しさがあった。
目隠し越しに、彼は彼女の気配を探る。
ヨルの匂い、体温、息遣い……どれもが、今の彼にとっては甘すぎる毒だった。
「……わかってるくせに、ほんと、」
ゆっくりと手を伸ばし、彼女の手首に指先が触れる。
だが、それ以上動くことはない。ルールは、まだ破られていない。
「全部ゆるされるなら……今すぐおまえをめちゃくちゃにしてやりたい」
その言葉は、低く静かで――限界すれすれの男の、本音だった。
唇の奥で、かすかに歯を食いしばる。
すぐそばにある大切な存在を、愛おしすぎるほどに欲している。
けれど、それでも彼は――まだ堪えていた。
「なあ……ヨル」
呼びかける声は、ひどく切実で、熱っぽい。
「……いつまで、俺を試すつもりなんだ」
その言葉にふっと微笑みを浮かべると意地悪く囁く。
「きみが悪い子じゃなくなるまで」
今度は首に手を回し一方的に抱きしめる。お互いの心音が聞こえそうなほどの密着。
首元にはヨルの息がかかる。
「……それ、永遠に終わらないかもな」
レオの声は、苦笑にも似た震えを帯びていた。
抱きしめ返したい――その衝動をどうにか堪えながら、彼は身じろぎひとつできず、ただヨルの腕の中にいる。
彼女の小さな腕が首に絡み、柔らかな体温が胸に押し当てられている。
鼓動が重なり、熱が交じるこの距離。
視界が奪われているぶん、五感が敏感に彼女だけを捉える。
首筋にふわりと落ちる吐息が、皮膚の奥にまで焼きつくようだった。
「ヨル……」
色の混じる熱っぽい声が自然にこぼれた。
愛おしい。欲しい。全部、自分だけのものにしたい。
「こんなにされて……悪い子になるなって方が、無理だろ」
ぽつりと、弱音にも似た本音を吐く。
そして――
「……そんなに俺が好きなら、そろそろ許してくれよ」
彼女の耳元で囁くように、レオは言った。
声は熱く、そして甘えていた。
まるで“罰”の時間が、少しだけ長すぎると訴えるように。
「じゃあ、今後は絶対見えるところにキスマークを残さないって約束して」
首から腕を外すと必死に肘掛けを握りしめる手へと伸ばす。力の入った拳をそっと撫でて指を絡める。
「そしたら自由にしてあげる」
一拍の沈黙ののち、レオは熱を孕んだ声で静かに答えた。
「……約束する」
彼女の指が、自分の強ばった拳をほどくように撫でる感触。
まるでその仕草ひとつひとつに、緊張の糸を解かれるようだった。
視界が見えない今、彼の世界にはヨルだけがいて、
その指先の温度と、柔らかな手が絡む感覚だけが――何よりも強く、彼を支配していた。
「……ちゃんと約束守る。だから、もう……」
言葉の先は続かない。
それほどに、彼は限界だった。
自由にしてほしい、ただ彼女を抱きしめたい。そんな単純で強い願いが、胸を満たしていた。
指を絡められた手に、ほんの少しだけ力を込めて握り返す。
それは、彼なりの「降参」の合図であり、同時に――
「おまえの全部が好きでたまらない」
彼の言葉に込められた、精一杯の愛の表現だった。
「...許してあげる」
彼の苦しみに満足したヨルは先ほど触れただけの唇にもう一度キスをした。今度はさっきよりも深く愛情を持って、優しく。
そのままネクタイを解き、彼の視界を返す。それはお仕置きの終わりと自由を意味していた。
視界が戻った瞬間、光に慣れない瞳が少しだけ瞬く。
ぼやけた世界の中、まず最初に映ったのは――すぐ目の前で微笑むヨルだった。
柔らかな光が後ろから差し込み、彼女の髪の輪郭を淡く縁取る。
たった今唇を離したばかりの彼女の瞳は、どこまでも優しく、まるですべてを包み込むようなあたたかさでレオを見つめていた。
「……ヨル」
彼は名前を呼ぶだけで精一杯だった。
限界まで張り詰めていた感情が、今ようやく解き放たれ、胸の奥が甘く痺れるような安堵と愛しさで満たされていく。
ネクタイを解く指先の感触がまだ首元に残っている。
そして、さっきまでのキス――
あれは確かに、ご褒美だった。
レオはゆっくりと手を伸ばし、ヨルの頬に触れる。まるで壊れ物に触れるように、そっと、そして確かに。
彼は絡めたままの手をそっと引き寄せ、もう一度、自分の意思で彼女の指に指を絡める。
「こんなに好きにさせといて...」
けれど、その言葉にはもはや怒りも嘆きもない。ただ、心の底から湧き出た愛しさがにじんでいた。
そして――
「……なあ、ヨル。今夜は、俺が仕返ししてもいいよな?」
ほんの少し目を細めて、いたずらっぽく笑った。だがその瞳には、先ほどとはまるで違う熱が灯っていた。
それは、理性という鎖を解かれた男の――今度は“俺の番”だと告げる眼差しだった。
「仕返し?」
目隠しを外した時にかかってしまったレオの前髪をそっと横に撫でる。
「何してくれるの」
ヨルはそう一言、レオの瞳を見つめて挑戦的に返した。
レオは、撫でられた額の感触に一瞬まぶたを伏せ、それからゆっくりとヨルの手首を取った。
そのまま、自分の頬にそっと当てるようにして目を閉じる――まるで彼女の温もりを確かめるかのように。
そして、ふと目を開けて見返した。
その視線は真っ直ぐで、情熱と理性、愛しさと執着が複雑に溶け合ったものだった。
「俺にこんな顔させておいて……何してくれるの、か」
少し低く、喉の奥で転がすような声で繰り返す。
椅子に座ったまま、彼はヨルの腰に手を回してぐいと引き寄せた。その拍子にふたりの距離は一気にゼロになる。
「この挑発に乗ったら、後悔するかもな」
けれど口元には微笑が浮かび、その目だけが熱く燃えている。
「……今夜は寝かせてやらないって意味だけど、怖気づいたりしないよな?」
そう言って、彼はもう一度、さっきと同じ場所――ヨルの唇に、今度は自分からキスを落とした。
短く、優しく、けれど確かな所有と、これからの“仕返し”を予感させるようなキスだった。
「もちろん」
彼の言葉にゆっくりと答えるヨル。
「ちゃんと反省した良い子には、ご褒美あげないと」
レオの喉がわずかに鳴った。
ヨルの囁きに反応するように、指先が彼女の腰をほんの少し強く抱き寄せる。
だがその仕草には、もう先ほどまでの理性を保つ余裕はない。むしろ、彼女の一言一言が、火に油を注いでいるのを、ヨル自身がよく分かっているはずだった。
「……もう、どっちが仕返ししてんのか分かんなくなるな」
レオは自嘲気味に笑いながらも、その声にはどうしようもない甘さと、惚れ込んでいる相手にしか向けられない溺愛が滲んでいた。
「でも、そう言われたら……ちゃんと良い子にするしかないな」
目を細め、すぐ目の前のヨルを見つめる。
手のひらが彼女の背中を撫でながら、レオは一度深く息をついた。
そしてそっと、額をヨルの額に重ねる。
距離は縮まらない。けれど、それ以上に心が繋がるような――そんな静かな時間だった。
「……なあ、ヨル」
囁くように呼びかける声。
「……おまえが好きすぎて困る」
たったそれだけの言葉。
でも、それはレオの本音のすべてだった。
そして彼の“仕返し”は、このあと、静かに始まっていく――夜がふたりを包み込むその時間に。