服毒
07.『嫉妬』
「また来てくださいね、今度はおひとりでも」
休日に立ち寄った雰囲気の良いカフェ。店員の男がヨルにだけ親しげに笑顔を向ける。
ヨルは社交辞令的に軽く笑って返しただけだが、レオの中では小さな火種が燻り始めていた。
帰り道は無言のまま。
帰宅しても、レオのどこか張りつめた雰囲気は消えない。
「どうしたの、何か嫌なことでもあった?」
店員の態度なんて気にも留めていないヨル。彼女にとってはレオしか見えていないのだから当然のこと。
だが、彼にとっては違ったようだ。
レオはジャケットを脱いで、静かにハンガーにかける。
手元の動きは丁寧なのに、どこかぎこちない。振り返ったとき、その瞳には微かに燻った熱が残っていた。
「……ああ。あの店員、ずっとおまえのこと見てたよな」
近づく足音はゆっくりと、でも確実に距離を詰めてくる。
「“今度はおひとりで”とか、他の男に言われて、平気で笑って返すんだな」
低く抑えた声。それは怒っているというより、独占欲の滲んだ静かな嫉妬だった。
リビングの灯りの下、すぐ目の前まで来たレオが、ヨルの頬にそっと手を添える。
指先は優しい。でもその奥には、明確な所有の意思が感じられた。
「自分がどれだけ無防備か分かってるのか?」
親しげな笑みも、髪をかきあげたしぐさも、自分以外の誰かに見せるべきじゃない。
レオの眼差しは、そんな本音を隠しきれずにいた。
そんな彼の表情をみて嬉しげに笑みを溢すヨル。何も答えずに彼の一挙一動に胸を高鳴らせた。
顔も声も記憶に残ってすらいない店員の言動に嫉妬心を露わにするレオ。そんな彼の姿が愛おしくて仕方なかった。
「……何笑ってるんだよ」
レオの指がそっと頬から顎へと滑り、軽く上を向かせる。
顔を近づけたその距離で、ヨルの表情がよく見えた。嬉しそうで、どこか挑発的でもあって──そんな顔を他の誰かに向けるなんて、想像しただけで腹の底が熱を帯びる。
「なあ、本当に分かってるのか?」
甘えるように体重を預けてくる彼女の腰に、レオの腕が回る。
それはまるで、彼女を世界から隔離するような、閉じ込めるような抱き方だった。
「俺以外の誰かにああいう顔、二度と見せるな」
吐息が触れ合うほど近くで囁く。
「……俺だけのものだろ、ヨル」
その声は、普段のレオとは違う、独占欲に支配された男の声だった。
「そうだよ」
安心させるように軽く触れるだけのキスをした。だが、それと同時に腰にまわった彼の腕をゆっくりと解く。
「でもちゃんと捕まえていないと、いつか他の人のところに飛んでいくかもね」
彼の嫉妬心を理解した上で、さらに焚き付けるように意地悪く言う。
彼女のその表情は、まるで天使のようにも悪魔のようにも見えた。
レオの目が細くなる。睨むでもなく、怒るでもなく──ただ、静かに、何かを決意するような色を宿して。
「……上等だ」
彼は一歩、ヨルの方へ踏み出す。再び距離を詰めると、今度は逃がさないとばかりに彼女の手首を掴む。その力は強すぎず、けれど確実に、彼女の自由を制限する。
「だったら……飛べないくらい、俺のものになればいい」
息が触れ合う距離。視線はヨルの瞳だけを見据え、他の何も見ていない。まるで彼女しかこの世界に存在していないかのように。
「誰が他に目を向けさせるかよ。──俺だけ見てろ。俺だけでいい」
低く、荒く、それでいて切実な声だった。独占欲も、焦りも、愛しさも全部詰め込んだ、レオという男の全部。
そして彼は、ほんの一瞬の迷いの後に、その唇を奪う──
さっきの優しいキスじゃない、まるで「証明する」かのように、強く、深く。
呼吸は乱れ銀色の糸が2人を繋ぐ。
「もしも、あの店員と私が今と同じことをしてたらきみはどうする?」
それは醜い独占欲。レオが自分を中心に正気を保てなくなる状況がこの上なく心地良い。関係性を崩さないギリギリのラインは守りながらも、あえて神経を逆撫でするように言葉を紡ぐ。
レオの眉がピクリと動いた。
その瞬間、腕の力がわずかに強くなる──ちょうど、ヨルを完全に自分の懐に閉じ込めるように。
「……殺すかもな」
返された言葉はあまりに率直で、けれどそこに嘘は一切なかった。
怒りでも冗談でもない。ただ真っ直ぐな「愛」の延長線にある、危うい言葉。
「おまえが誰と何をしても、過去でも未来でも……俺が許すのは、俺だけだ」
頬を寄せ、囁くように吐き出された声は熱を帯びて低く、耳の奥を震わせる。
そして、首筋にキスの代わりの“印”を残すように唇を落とす──強く、逃げられないように。
「それでも試したいなら……いいよ。壊れるまで証明してやる。誰よりも、俺がおまえを狂わせてやるから」
ただ静かに告げるその声音には、獣のような気配すら漂っていた。
ヨルの挑発に応えるように、レオは彼自身のすべてを彼女に預ける覚悟を、黙って突きつけていた。
「嬉しい」
私の全てが彼のものであると認識できる返答に満足するヨル。実際に試してみたいと思う気持ちはない。そんなことをしたら本当に壊れてしまうかもしれないから。
今こうして興味の無い"もしも"の話をするだけで瞳の色を変える、そんなレオが見られるだけで何かが満たされた気になる。
レオはゆっくりと息を吐いた。
ほんの一瞬だけ、その瞳に浮かんだ獰猛さが消え、代わりにひどく柔らかな――それこそ、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な優しさが滲んでいた。
「……よかった。ヨルがそう言ってくれて」
指先でヨルの頬を撫でる。爪の先すら触れないほど丁寧に。
まるで確かめるように、愛しさを噛み締めるように。
「けど……そうやって俺を試すの、やめろよ。ほんとに壊したくなる」
その言葉は半分だけ冗談。もう半分は本気だった。
瞳を逸らさず、ただ真っ直ぐにヨルを見つめたまま、唇をそっと重ねる。先ほどまでの激情を閉じ込めるように、今度はひどく優しいキス。
「ヨルは俺が全てを捧げる唯一の大切な人だ」
それだけでいい、と言わんばかりに、抱き寄せた彼の腕には迷いがなかった。
強すぎず、でも絶対に離さないと語るような、執着の混じった愛おしさ。
この夜、ヨルが試した独占欲は――確かにレオの奥に巣食う“何か”を目覚めさせたのかもしれない。
「純粋な私をこんな風に歪めてしまったのは、きみだよ、レオ」
だから責任とってと、目を細める。
段々と堕ちていく、互いに求め合い依存して深いところまで。それでも構わないと甘い囁きが耳の奥を掠める。
レオはふっと鼻で笑った。
笑ってはいたが、目はまるで笑っていなかった。奥底に燃える何かが、静かに、しかし確かに揺れていた。
「……ああ、知ってるよ。だから責任、ちゃんと取ってやる」
彼はヨルの頬を両手で包み込むようにして、真正面から見つめる。
その視線に嘘はなかった。覚悟とも言える熱が宿っている。歪めたのが自分だというなら、その歪みすら愛そうと――そんな意志が、そこにはあった。
「おまえが堕ちた先が俺なら、それでいい。……全部受け止める」
言葉と同時に、ゆっくりと額を寄せる。
肌と肌が触れる距離で、小さく囁くように。
「でも、俺も一緒に堕ちるからな。もう、戻れないぞ」
低く、熱を帯びたその声は、囁きではあったが、どこか呪いのようでもあり、誓いのようでもあった。
そのまま頬へ、耳の裏へ、吐息混じりのキスを落としながら、彼は確かに彼女に刻み込むように――
「もう俺以外、見るな。ヨル」
と、心の奥に深く、深く、囁いた。
「じゃあ行動で示して見せて」
同じくらい甘く吐息の混じった声で返す。
「他の人なんて目に入らないくらい、きみに夢中にさせて」
挑発的な声色で、そして彼の奥底に眠る欲望を焚き付けるようにして。
レオの喉がかすかに鳴る。
その一言に、最後の理性の糸が切れかける音が聞こえた気がした。
「……おまえは、本当に……」
口元に浮かんだのは、呆れと愛しさが綯い交ぜになった笑み。けれど、その目の奥ではもう引き返せない熱が灯っていた。
次の瞬間、彼の腕が一気に強くヨルの身体を抱き寄せる。
「そこまで言うなら」
背中へと滑らせた手は確かに、けれどどこか優しく触れていた。
逃がさないように、壊さないように。
彼女の輪郭を掌に刻むように、肌を伝い、喉元へ。触れるだけのキスを落としてから、彼女の視線を見上げて囁く。
「後悔するなよ」
問いながら、首筋へ、肩口へ、まるで確かめるように触れていく。
彼女がどう反応するのか、その全てを見逃さずに――まるで、今この瞬間から彼女を染め上げていくことを確信しているかのように。
そして次の一言は、低く、喉の奥で唸るように。
「俺以外、考えられなくしてやるよ、ヨル」
彼が触れる全ての場所が熱く火照る。彼が残す跡が花弁を開く。その全ての瞬間を手放さないように掴んだ。
「レオも私だけを見てて」
吐息混じりの蜜より甘い呼吸が部屋に広がる。
彼の瞳が細められる。まるで、その言葉一つで心の奥まで見透かされたような気がした。
「……他に誰が見えるっていうんだよ」
言葉の裏には、嫉妬と独占と、それ以上の情が絡み合っていた。
ヨルの手が彼の服を掴む力に応じるように、レオの手もまた、彼女の腰をなぞる。ぐっと引き寄せるその仕草は、彼女をこの世界から攫うかのような激しさで。
「全部見てる。おまえの声も、表情も、熱も、俺が一番知ってる」
再び唇を重ねた。けれどそれは、ただのキスじゃなかった。
まるで刻印のように、彼女の存在をこの手で永遠に染め上げようとする、深くて、強いキス。
彼女の耳元に唇を近づけ、少しだけ囁くように。
「他の奴にこの顔、見せるなよ。……俺だけのものなんだから」
言葉とは裏腹に、彼の指先は彼女の髪を撫でるように優しかった。
けれどその優しさの中には、ひとたび壊れれば取り返しがつかないような、強い執着が滲んでいた。