クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
第1話 誰も触れてはならぬ花
季節は秋の終わりの十月の末。
時刻は夜十時、六本木の会員制クラブのボックス席。
明滅する照明と通常営業時より多少は抑えられているクラブミュージックの大音量からは少し離れた場所。
それでも完全個室の席よりはやはり騒がしくもあり……半個室のような席が並ぶ場所でシャンパンのボトルを開けていたのは龍堂撫子、34歳だった。服装はビジネスカジュアルな濃紺のタイトスカートにジャケットと白いデザインブラウス。ヒールは少し高めではあったがそれ以外はごく普通の年齢相応の装い。
しかし見る者が見れば、その一点ずつがとても質の良い物だとわかる。膝に置いてあるハンカチ一枚すら、である。
今、コの字型のボックス席で彼女のまわりを取り囲んでいるのはホストのような様相の四名の男性。しかし突然、テーブルに大きな影が出来るとその男性陣全員がすぐに「熊井さん、ご苦労様です」と軽くシートから尻を上げて頭を下げる。
しかし撫子だけはゆったりとその影を作った者を見上げたまま最小限に口を開いた。
「宗君、また大きくなった?」
にこっと口角を上げて笑った撫子に対して途端に満面の笑みになるのは熊井宗一郎、30歳。名前どころか名字すら体を表すのか高い身長に筋骨隆々の男。マッスル系のスポーツインストラクターのように髪は小ざっぱりと短いツーブロック。けれどわりとベビーフェイスな男、宗一郎はまるで撫子しか眼中にないように「撫子さん、お久しぶりです」と彼女だけに頭を下げる。
そんな挨拶を受けた撫子は両隣に侍らせていた男性たちに目配せをして離席を頼む。そんな四人は蜘蛛の子を散らしたように宗一郎や撫子に会釈をしながら直ぐにボックス席から離れて行ってしまった。
「今のって確か国見さんのシマのところのホストクラブの」
「そう、兄弟でホストをやってる宮野木兄弟とお店の子たち」
「ああ……」
宗一郎の少し不服そうな口ぶりに対して撫子は柔らかな表情のまま、宮野木兄弟たちが散って行った方を見る。
「見た目はいかにもだけど、もう少し頑張って結果を出せたら二人でお店を持ちたいんだって」
「だから撫子さんに接触を」
「そうね……私はただの不動産屋なだけで大した権力なんて持ってないんだけどね。それにしても宗君、あんまりこう言う場所は好きじゃないのに来るの珍しい」
宗君も座って、と促す撫子に宗一郎はロングシートの方ではなくテーブル下にあったスツールを引っ張り出して彼女の真正面に腰を掛ける。
理由は簡単。その方が撫子の顔がよく見えるから。
「接待で飲みに出ていたんですが早々に切り上げて帰ろうとしていたらたまたま外に国見さんの所の関本さんがいて。それで撫子さんも来てるって教えて貰ったんです……ってことは今日の貸し切りは国見組が直で仕切り、ですか」
「そう。関本君、さっき電話しに行くって言って出て行ったけど忙しそうだから多分もう戻って来ないかも」
時代が時代だからね、と撫子の夜に見合うくっきりとした色合いのリップが塗られた唇からは溜め息交じりの言葉が零れ落ちる。
龍堂撫子は暴力団組織が寄り集まった関東広域連合会『博堂会』直参、次期会長の座に一番近いと言われている龍堂会筆頭が持つ一人娘だった。
――これは暴対法が意味を為さなくなった世の中の話。
バブル経済期を過ぎ、強化された筈の暴対法がこんなにも早く崩れるとは誰も思ってもみなかった。反面、秩序の消えた繁華街には不法滞在の外国人が溢れかえり、それは地方都市にまで及んでいた。容赦のない暴力、略奪、そのカネは一体どこに流れているのか。息を潜めながらも社会の裏側に未だ存在していた日本の暴力団組織は業を煮やし、一つの大きな連合を立てた。
自分たちのシマをこうも荒らされ、現代においてもまあまあ、そこまでカタギには手を出さないでいた自分たちにとって代わってやりたい放題をやってくれている外国人。それを手引きしているどこかの阿漕なブローカー。そして盗品を買い取り、流しているどこかの奴ら。
関わるのは全員が裏社会の悪人たちだ。
撫子も、宗一郎も、二人の視界にある者たち皆が利権を喰らい合う混沌の中に身を沈ませている。
「私も関本君からどうしてもって言われて仕事帰りに寄ったんだけど。同級生のよしみって言うか、まあこれも付き合いのひとつだからね」
「関本さんって確か最近アレですよね。国見組の舎弟頭補佐になったとか」
「ね……まだ最初の内だから結構大変みたいよ。国見さん自身、インテリ系だから同じような気質の関本君に組を任せたいみたい」
ひと月ぶりくらいに会えた撫子と世間話ができ、嬉しそうに太めな眉尻を落としている宗一郎だったのだが背後から聞こえる『あ!!熊クン来てるじゃん!!』の声に気づく。
撫子もその声のする方に顔を向けて「行って来たら?」と彼に声を掛けてしまう。
「こう言う時は気前よく顔を出しておいた方がいいわよ」
「でも……」
せっかく撫子と話をしていたと言うのに。分厚い肩を落とす宗一郎は撫子の言葉に従い、スツールから腰を上げる。
「いってらっしゃい」
離席を余儀なくされ、またにこっと綺麗に口角を上げて笑って送り出してくれる撫子に後ろ髪を引かれる思いで宗一郎は「熊クン久しぶり!!」と声を掛けてくれる同年代の者たちの輪の中へと入って行く。
その大きな背を見つめる撫子の表情は少し、寂しそうだった。
宗一郎は特にスーツなど、フルオーダーの仕立てにしなければいけないくらいの体躯をしている。今夜の彼が着ているダークスーツはカジュアルではなく、それなりの要人と会う時の物だと撫子は知っていた。身長も186センチと高く、厚みもあるし、で……敬語を使わずに許されている仲間内では「熊クン」やら「クマ」と名字と見た目そのままで呼ばれていた。
けれど撫子だけは彼を「宗君」と呼ぶ。
それはただ一人だけ、宗一郎から愛称を呼ぶことを許されている撫子だけの特権だった。
話をする時の宗一郎は真っ直ぐに撫子を見つめる。少し年上の彼女に対する尊敬やライクな感情によるものではなくまるで心底、愛しているように見つめてくる。
それは二人が小さな頃からの許婚の関係であったから、と言う理由だけではない。宗一郎には撫子に対してかなり濃いめの恋慕があった。
龍堂撫子と熊井宗一郎は互いに親が極道者であり、その直系の子女だった。
そして龍堂と熊井の両家は共に博堂会の直参、龍堂に至っては撫子の父親は博堂会本部の若頭を務めている次期二代目になることが約束されている立場。
撫子と宗一郎が生まれたのは既にバブル経済が崩壊した後。
いつか来る極道の終焉を見据えてなのか、それとも単なる親同士の勝手な振る舞いなのか、撫子と宗一郎の二人は物心がつく前から許婚の関係に置かれていた。
(宗君、ちょっと我が儘になることがあるから無理にでも促さないと……なんだけど)
互いの家でお泊り会をしていたような子供の時代を過ぎ、いつからか宗一郎は撫子に対して敬称を付け、丁寧な言葉で話しかけるようになった。
それもそのはず、許婚の関係とは言っても撫子の方が四つ近く年上で、博堂会内の序列からしても格が上。
それを決定づけているのは彼らの男親が五分の盃を交わした兄弟分、詳細には五厘下がりの兄弟であり撫子の父親の方が僅かに上、兄貴分にあたるからだった。
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