クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 きっとそれが素の熊井宗一郎。
 その甘いベビーフェイスはやはり内面が現れていた……のだろうか。

 「シャワー浴びてから着替えるでしょ?買って来た物は私が分けておくから宗君は支度してて」
 「すみません、事務所に先に寄らないとなのでお言葉に甘えます」

 ダイニングテーブルに買って来た物を広げながら先ず、大切なアイスクリームのカップを冷凍庫に納めた。
 次に生鮮食品を、と選別している撫子の背後では宗一郎がどこかに電話を掛けながら着替えの肌着などを持って洗面所と寝室を往復し始める。
 そんな彼の声は自分に話しかけてくれる声とは違って低音の弦楽器のように張りがありながらも低く、落ち着いていた。

 (あ、れ……なんだろう。私、いま……宗君のこと)

 宗一郎のお菓子を分けていた指先にまで走る一つの感情。
 これはイヤな感覚だ。小さく息を飲み、自分の思考を止めようとする。

 ――どうして羨ましいなんて思ったんだろう。

 色々と詰め込んでいたスーパーの紙袋に宗一郎が選んで買っていたお菓子を入れ直す手が途端にぎこちなくなる。それ以上のことは考えたって仕方がないと分かっているのに。

 (もしも、私が男として生まれていたら……)

 いい加減に止めようとしていた堂々巡りの思考。
 宗一郎とお試しで暮らして少しは解消されたかと思っていたのに。

 「宗君のお菓子、ここに置いておくね」
 「ありがとうございます。撫子さんも食べたいのあったら遠慮なく開けて良いですから」
 「うん。今ね、このオニオンスナックが目についた」

 平静を装うことには慣れている。
 そうやってる内に多少はイヤな考えも落ち着くことも知っている。

 「ちょっとだけお皿に開けて食べながらお夕飯作ろっかな」
 「それいいなあ……」

 不安や恐怖、怯えと向き合い続けた末に覚えてしまった処世術。
 忙しなく行き来している彼の邪魔をしないように撫子は一人、リビングで荷物の整理をする。
 生鮮食品は仕方ないがあまり自分の荷物は広げすぎないようにしていた。化粧水や乳液、美容液などメイクの類いはどうしても実家からそのまま持ってきていたが服などは最低限。使っていない小物類もまとめて一度、家に持って帰った方が良い。
 彼との生活が終わって、この部屋から出て行く時のことを考えると今のうちに物は厳選して……。

 帰宅から一時間ほど経ち、支度が終わった宗一郎を玄関で見送ろうとした時だった。

 「撫子さん」

 何か忘れ物でもあるのかな、と思った撫子の体に太い腕が回され、抱きすくめられる。それこそファンデーションが付いてしまう、と咄嗟に彼の胸元に両手をやったがほんのりとパウダリーな香水のにおいがした。

 「これで良し」

 行ってきます、と宗一郎は玄関前まで迎えに来ていた舎弟と行ってしまった。匂いが移る程でもないが、撫子の鼻腔には彼の香りが残る。

 「そん、な……ぁ……」

 情けない声と共に廊下にへたり込みそうになる撫子は自分の身を自分の腕で抱き締める。
 今のは明らかに『マーキング』だ。彼も自分の思い通りにならなかったもどかしい気持ちをどうにかしたかったのかもしれない。

 それから暫く、キッチンに立ってポトフを作ったり、明日の方が味がしみて美味しく食べられるようにと白身魚のマリネなどを撫子は淡々と仕込む。夕方から夜にかけてずっとキッチンに立ちながら夕飯代わりにお菓子と料理を味見がてらつまんだ撫子は一人でシャワーを浴び、就寝となった。

 黙って開いた寝室の扉。
 そこにあるのは枕と布団が二揃い用意してあるクイーンサイズのベッド。
 宗一郎の帰宅時間は分からない。こっちで寝たらきっと気を遣わせてしまう。

 (でも、ちょっとだけ……)

 どうかしてる、と思いながらも撫子はゆっくりと寝間着の体をベッドに横たえる。
 彼に抱き締められ、マーキングのように匂いを付けられてから体がずっと、切ない。きっと宗一郎もそんなこと、思ってもみないだろう。

 彼の匂いを思い出しながら一人、彼のベッドで手遊びをしようだなんて。

 こんな風に一人でシたくなるなんていつ振りか分からない。けれどもう、駄目だ。彼のベビーフェイスや雰囲気とよく合うあの香水の匂いを故意に擦り付けられては自制心が効かなくなる。

 「……っ、んく」

 自分で胸に触れれば彼の大きな手の平を思い出す。
 この体をあの大きな体で圧し潰すように……でも本格的に愛してくれる前に彼はきちんと骨太ながらも繊細な指先で何度も気持ちよくなれるところを擦って、ほぐし、て――。

 明かりを付けっぱなしにしていたリビングから物音がする。ぱたぱたとルームシューズの小さな足音。それはもう、撫子の耳にもすっかり馴染んだ宗一郎の足音だった。
 寝室の扉を開けた彼は無言のまま静かにスーツを脱ぎ、ハンガーにジャケットを掛けている。
 淡い手遊びは既に終えていたが咄嗟に布団を被って寝ているように見せかけた撫子。ドキドキとどうしようもなく脈打つ鼓動を抑えるように丸くなろうとしたが、近くを通りかかった宗一郎からお酒の匂いを感じ取る。

 かなり飲んできたのか、はたまた匂いが移っただけなのか。
 寝間着を取りに来たらしい宗一郎は洗面所へ行き、そのままシャワーを浴びているようで寝室はまた撫子ひとり。

 つまるところ、狸寝入りをしているわけだがドキドキが収まるころには宗一郎もシャワーから上がって来た。暫くリビングと寝室を行ったり来たりしていたが付けっぱなしになっていたリビングの明かりが落とされ、常夜灯に切り替わる。

 「はー……」

 しかし寝室に入って来た宗一郎から聞いたことも無いような大きな溜め息がひとつ。彼は撫子が既に深く寝ているものだと思っているようだが中々ベッドに上がって来ない。
 どうやら何か悩んだ末にまたリビングの方に行ってしまった。

 精神的に疲れすぎて逆に眠れない日などよくある。だからそれかな、と撫子は自分の体に残る淡い快楽をそのままに宗一郎の心配もしながらいつしか眠りについていた。

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