クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 別にこの光岡と言う男の口が特段、上手い訳では無い。
 ただ撫子のようにごく自然に、丁寧な言葉と態度を示しながらもヤクザと言う裏社会の家業について思う所がありそうな……話をするには丁度良さそうで。

 「光岡さんもあまりこういった場所にはいらっしゃらないタイプですか?」
 「そうですね。遊ぶ年頃を過ぎてしまってから、こちらの界隈に本格的に関わってくるようになったので」

 三次団体の子女ともなればごく普通に学生、社会人生活を送ることの方が多い。その先は自分で決めろ、と親の代で組の看板を下ろしてしまうこともある。統合、吸収された組は多い。その末に新興組織をまとめる為、関東の古参組織を中心に立てられたのが博堂会だった。

 「光岡さん、また機会があったら是非。私で良かったらお話を」
 「良いんですか?こっちが急に話しかけた挙句、なんだか馴れ馴れしくしてしまって」

 はにかみながら緩いウェーブのある髪を少し揺らした光岡令士。博堂会直参、龍堂会筆頭の娘どころか次代の博堂会会長の娘である龍堂撫子と大勢の人の目がある場所でここまで普通に会話が続くことが稀であると彼は知らない。

 ――それを、許さない男がいるから。

 撫子が視線だけで追っていた宗一郎がバーカウンターの椅子に座って随分と親しく話しこんでいる男女の姿を見つける。途端、温和な印象を持っている筈のベビーフェイスが俄かに険しくなった。
 彼が踏み出した一歩が重い。ずんずん、と人混みを掻き分けるでもなく宗一郎が通ろうとすれば勝手に道が開けてゆく。

 「あ、噂をすれば熊井さんが」
 「モーセの十戒みたい」

 宗一郎の体が持つ威圧感がそうさせているのか、人混みの中だと言うのに本当に真っ直ぐ、バーカウンターに向かって歩いてくる。音量は通常営業よりかなり落としているが最新のクラブミュージックの中では聞こえない筈の彼の重い革靴の音が聞こえてくるかのような力強い足取り。

 「なんか私、ヤバそうですかね」
 「大丈夫ですよ。宗一郎君はそう言う子じゃないですから」
 「……そう、ですか」

 少し言葉を詰まらせる光岡。
 それに撫子と宗一郎の関係を良く知る者たちは彼女の隣にいる優男が一発殴られでもするんじゃないかと好奇の視線で様子を伺っている。

 龍堂撫子は触れてはならない孤高の花だ。
 その花に触れ、愛でて良いのは許婚の熊井宗一郎だけ。

 あるいは撫子から『許された』人物だけであるが傍から見ると撫子の隣にいる優男、光岡は許された部類に入るのだろうが宗一郎からすればまったくもってその新たな男の存在は面白くない。
 宗一郎は撫子を心底、愛している。それもちょっと怖いくらいに。
 それを撫子本人に直にさらけ出しているようではなかったのだが彼と仲の良い者たちは少しでも撫子の事を下げるような口ぶりをすると無言の圧力が掛けられるのを知っていた。
 体が大きいからなのか、愛情も大きいのだろうと言う仲間内での解釈。極道者だと言うのに宗一郎は結構分かりやすい性格をしている。
 そんな彼はあっという間にバーカウンターまでたどり着いた。

 「接待ご苦労様。アイスコーヒー飲む?」
 「ええ、頂きます」

 光岡とのファーストコンタクトがスムーズに行われるように、と先に撫子は宗一郎に飲み物をどうするか問いかけてみるが雲行きは怪しい。

 「もう、そうやって黙って威嚇しないの。本当に野生のヒグマになっちゃうわよ」

 顔に出ている事を暗に伝える撫子に宗一郎も一応はばつが悪そうにするが「光岡と言います」と先に光岡から名刺を差し出されたのでマナーとして「熊井です」と短く会釈をする。
 名乗らずとも博堂会に属している者ばかりが集結している今夜のクラブ。宗一郎も渋々な感じではあるが社会人のマナーとして自らの表向きの名刺を光岡と交換した。
 撫子に馴れ馴れしく接触していた優男が宗一郎に一発、二発、殴られるんじゃないかと下衆な期待をしていた面々は「つまんねーの」と散っていく。もう十歳、宗一郎たちが若かったら分からなかった……かもしれない。

 そして宗一郎は撫子の方に二つ並んでいる小皿に気が付いた。
 片方は光岡が食べずに差し出したのだろうが、この界隈を底まで知っている撫子がいくら人の目がある中でも従業員以外の他人から差し出された物を受け取っているのは珍しい。
 撫子が目を離しておらずに『安全』と判断をしたのだろうか。
 彼女は人間の加害性を熟知しているというのに。

 「熊井さんがいらっしゃったなら私はこれで」

 ムスーっと大人げのない態度をしている訳ではないが撫子の隣にまるで防護壁のごとく大男に立たれてしまえば誰でも居心地は良くない。
 平身低頭でいる光岡に対しては終始、ビジネス対応をした宗一郎だったが最後の「また、機会がありましたら」と撫子の目を見て言った光岡の眼差しに違和感に似た何かを感じ取る。
 ただ自分が撫子の事が大好きで、嫉妬をしているだけなのだと思いもしたが……何だか、違うような。野生の勘のような。

 「宗君?」

 アイスコーヒー飲まないの?と声を掛けてくれる撫子に寄りそうように、光岡が座っていた場所とは反対側に宗一郎は座ると「撫子さん、このあとは」と予定を尋ねる。

 「流石に家に帰ろうかな」
 「じゃあ送らせて下さい」

 撫子も断る理由がないので「うん、お願い」と彼の申し出を受け入れる。そして自分が飲んでいたホットコーヒーには一切手を付けず、関本秘蔵の高価なチョコレートだと知っていながらも彼女はそれらをバーテンに下げるよう頼んだ。
 彼女自身、気にしすぎなのは分かっているが目を離した隙に何をされるか分からない立場であるのは重々承知している。
 過去には暴行紛いの事をされそうになった事もあったのだが悪いのは相手の加害性であって、撫子は……。

 「飲んだら出よっか」

 細身のカクテル用グラスに入っていたアイスコーヒー。宗一郎にとっては三口程度のそれはあっと言う間に飲み干され、グラスの中の氷がカランと鳴った。

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